東京メトロと都営地下鉄の白金高輪駅を降り、地上に出る。国道1号線(桜田通り)を越えて並ぶ高層ビルの間に見えている崖の上が高輪である。武蔵野台地の端部には、このような崖やそれに伴ってできた急峻な坂道が多い。特に港区は、都内屈指の段差の街である。
旧・芝高輪西台町、現・高輪1丁目の大部分が、正保元年(1644)に細川家が拝領した屋敷地、6万㎡(約1万8千坪)の跡だ。
高輪台地に上がるためには、崖沿いに建つ港区高輪地区総合支所のエレベータを利用する。最上階の5階で降りて直ぐに、戸建て住宅や低層マンションから成る住宅地に立ち入る。実は、そこがもう旧細川藩の屋敷内なのだ。それを証明するものが、右の方へ少し歩いた崖の際に、うずくまるように在る老木だ。屋敷内にあった樹齢400年ともいわれるスダジイで、「旧細川邸のシイ」と呼ばれる。現在では高さ10mほどだが、幹周りが8mもある大樹だ。ただ、二本の太い枝の切り落とされた断面や、下部に外科手術が施された箇所を見せ、その姿は痛々しい。
昭和36年(1961)、東京都の天然記念物に指定されている。
「旧細川邸のシイ」
「旧細川邸のシイ」を右に見て、かつての屋敷を貫くように付けられた道を進むと、ちょっとオシャレな7棟の共同住宅から成る団地が見えて来る。下の方には、中学校の校舎と運動場も見える。それらは旧細川藩の屋敷地の一部で、その広さが充分に実感できる。
その団地内の細い道を行くと、「大石良雄他16人忠烈の跡」の表門に出会う。元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士による吉良邸討ち入りがあった。大石良雄(内蔵助)他16人の浪士が細川藩にお預けとなり、この屋敷内で〝主君の仇を討った武士の鑑〟と誉め称えられ、罪人扱いにされず厚遇を受けた。しかし、翌年2月に幕府から切腹を命じられる。切腹の場は、大書院上の間の前庭と伝えられているが、そこが上記のように呼ばれて残された。つまりここは、誰もが知っている戯曲・忠臣蔵の最終場面の一つとなった地なのだ。
「大石良雄他16人忠烈の跡」は普段公開されていないが、門扉に組み込まれたガラス越しに切腹の場が見える。
12月と言えば忠臣蔵。泉岳寺の義士祭に行こうと考えている人は、ついでに足を延ばされたらどうだろうか。興味のある人には、一見の価値がある。
「大石良雄他16人忠烈の跡」の表門
明治22年(1889)、細川藩の屋敷跡は宮内省高輪御料地となり、明治天皇の第六、第七皇女の御殿が造営される。さらに、昭和5年(1930)の高松宮殿下ご成婚にともない、この地に宮邸が建てられた。
大戦後、高松宮邸6万㎡の敷地は、港区立高松中学校、高輪1丁目都営アパート団地、松ヶ丘住宅地、港区高輪地区総合支所などに割譲され、1万㎡(約3000坪)となった。中学校と住宅地には、宮に由来の名が付けられた。
宮と妃殿下の薨去により、平成16年(2004)、高輪皇族邸として宮内庁管理下に置かれる。
「忠烈の跡」の表門から初めの道に戻り、さらに進むと二本榎通りにぶつかる。そこを左に少し下ると、旧高松宮邸(高輪皇族邸)の正門である。
旧宮邸は、令和2年3月から本年4月まで、上皇陛下、上皇后陛下の仙洞仮御所となっていた。両陛下が赤坂御用地内の仙洞御所へ移られ、警視庁機動隊の大型車両も今は無い。
旧高松宮邸正門
旧高松宮邸正門の位置には、江戸城・馬場先御門近く因州池田藩上屋敷の黒門が移築され、宮邸のシンボルとして高輪の人々にも親しまれていた。しかしその門は、昭和29年(1954)に国の重要文化財の指定を受け、東京国立博物館の敷地内に移された。現在もそこに展示され、同館の敷地外、道路から眺めることができる。
正門そばの路上で、近所に住むと思われる老人に、「黒門を見ていましたか?」と尋ねる。
「通りに面して威風堂々と立つ黒門が消え、本当に寂しいねぇ……」と、つぶやくように話す人に礼を述べ、小さな旅を終えた。
鈴木晋(丹下)
次号、「表参道」
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
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