大和の歴史 西口紋太郎著「天誅組重阪峠」を追って、五條市~御所市~高取町の天誅組史跡を歩いています。 嘉永六年(1853)6月3日、突如としてアメリカ使節ペリ-が軍艦四隻を率いて浦賀湾に 入港した。有名な浦賀湾一発の砲声である。一発の砲声に夢破られて国論は沸騰! 全国各藩の下級青年武士は立ち上がった。また幾多の若き血に燃える青年志士も続々と して京都へ上ってくる。尊皇、攘夷、討幕の声は入り乱れて、日本六十余洲は蜂の巣を つついたような騒ぎとなった。当時名柄村(御所市)にも六物空満という青年がいた。 ・・で始まる「天誅組重阪峠」ですが、ウン!!「六物空満」って誰?? 初めて聞く名前に「天誅組」とは直接、関わりはありませんが、猛然と興味が湧き、その 先を急いで読んでいきますと、以下のように書かれています。 六物空満(ろくぶつくうまん)は非常な俊才で名柄(ながら)竜正寺(りゅうしょうじ) で出家得度して僧籍に入り、傑僧、月照とも交遊する勤王討幕の志士であった。 一触即発の危局を迎えたある日、空満は京洛の地へ上って行くのである。京都へ上った 空満は、幾多の志士とともに、尊王、討幕に奔走したとあります。 彼は、医学をも修めていた関係上、有栖川宮熾仁親王の弟であった嵯峨大覚寺宮に仕えて いたが、このことだけでも彼は如何に俊才であったかがわかる。・・・と 空満は名柄村に生まれ、父は森新吾といい、母を多津といったが、空満の生年やその生い 立ちがはっきりわからないのが残念であるが、その墓が御所市名柄竜正寺に静かに眠っている。 その墓の写真が掲載されていました。
更に驚いたのは、この六物空満は彼の「安政の大獄」により捕えられ、江戸伝馬町の牢屋 につながれるが、まもなく獄死したといわれている。・・を読むに至り、これは是非とも 「竜正寺」に行かねばと、インタ-ホ-ンを押した次第です。
御所市名柄 浄土宗大張山浅原院「竜正寺」 本尊は「木造阿弥陀如来像」で国指定の重要文化財として知られているお寺ですが、イン タ-ホ-ンを通して訪問の目的を告げますと、ご住職はお留守でしたが、奥様が扉を開 けて墓所にご案内して下さいました。
特徴ある姿のお墓は三つありましたが、本の写真とピタリのお墓を見つけました! まだお若い奥様は、当然と言えることかも知れませんが、六物空満(森六物)はおろか 「安政の大獄」といった歴史もあまりご存知ないようでした。 苔むした墓碑の側面には南無阿弥陀仏安政三辰年三月らしい文字が微かに読み取れるもの のよくわかりません。御所地区での「天誅組」の史跡や幕末の歴史をお話しますと、 大変興味を示された奥様は「早速図書館に行って借りてきます」と仰り、同時に墓石を タワシでこすって、文字の確認をしてみますと言ってくださり、追って連絡を頂けることになりました。
医学者であり、討幕勤王の闘士であった僧、空満が、たまたま病を得て、父母の眠る 竜正寺の桃山時代の建築美が漂う庫裡上段の間に安らかに眠っている時、幕府の捕吏が 踏み込んだ。時に安政五年の冬であったといいます。金剛、葛城の峰々を渡る風は身を 切るほどの真夜中、竜正寺は幕吏によって包囲されていたのである。 病に疲れ切った空満には抵抗すべき気力さえない・・・ 安政の大獄での受刑者は、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎、鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、 茅根伊予之介、梅田雲浜、飯泉喜内、日下部伊三治、藤井尚粥、信海などがよく知られて いるところですが、遠島の欄に鷹司家家臣小林良典らとともに大覚寺門跡家士、六物空満 獄死として記載されています。御所市は勿論、大和から大獄に関わった志士が居たなん て初めて知り、感動を覚えましたが、皆様はご存知でしたでしょうか? 去る4月4~5日と同窓会を兼ね、東京の幕末史跡巡りをしてきましたが、その折訪れた 一つが、荒川区南千住にある小塚原回向院でした。安政の大獄により刑死した橋本左内・ 吉田松陰・頼三樹三郎、梅田雲浜など、多くの歴史上有名な人物が葬られています。
中央、梅田雲浜墓の左手に森六物之遺墳とありましたが、この時は著名な梅田雲浜墓を 中心に撮りましたので、後で調べるとともに改めて驚きました! ウイキペディアによると、六物空満。享和元年(1801年)~安政六年11月(1859年) 森新吾の次男。幼名・龍蔵。六物は通称だが、後に姓として使ったとあります。 明治31年(1898)贈正五位。墓所は京都霊山にありますが、次に訪れる機会には是非、お参りしたいと思います。
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