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ザ・戊辰研マガジン

2018年10月号 vol.12

幕末人物終焉の地(6- 6)井伊直弼

2018年10月04日 23:52 by norippe
2018年10月04日 23:52 by norippe

 井伊直弼は、「安政の大獄」を引き起こし短気で強引な人物という印象を持たれ、朝廷を無視して屈辱的な開国をした奸臣であると批判する意見がある。しかし本当にそうであろうか。
 孝明天皇をはじめ、朝廷の外国嫌いは度を超えていた。直弼の調停工作は失敗に終わり、勅許を得ずに条約を結んでしまうのだが、これには直弼の考えがあってのこと。長々と考えて実行に移すよりも、手早く済ませたほうが日本のためにも得策であると考えたのだ。
 この難局に、外交政治にはまったく素人の公家たちの言い分は無意味であった。当時の朝廷や公家で開国が理解できる人物はわずかしかいない。外交政策も、知識も、実務能力も、経験も、幕府はトップレベルである。2世紀以上政権運営をしてきた幕府にはノウハウは十分蓄積されていた。
 さんざん朝廷に悩まされ、それでも公武合体をして何とか歩んでいこうとしていた直弼であったが、政敵である水戸藩に「戊午の密勅」が下されたことが、その後の直弼の人生を狂わせた。
 公武合体をして足並みを揃えようというときに、水戸藩そして公家達が、よりにもよって、正式な手続きも得ないまま密勅を得ていたのだ。苦労してまとめた条約調印を批判し、攘夷を断行しろというものであった。直弼にとっては果てしなく理不尽であった。幕府は堀田を派遣して説明にあたるのだが、異人嫌いを前面に出し、攘夷決行を押し切る朝廷であった。直弼が勅許を得ずにアメリカとの条約を結んだ事はあとで説明すればわかるという考えのもとであったが、正式な手続きも得ないまま、密勅を得ていた水戸藩の行為には流石の直弼も頭に血が上った。それが「安政の大獄」という無謀な結果を生んでしまったのだろう。

 幕府は水戸藩士たちが直弼を襲撃するのではないかと察知しており、直弼に忠告をしたのである。水戸藩士たちの襲撃をかわすため、大老を辞任して国許に戻り、ほとぼりを冷ますようにと直弼に勧めたのだ。国許に戻るのが嫌なのであれば、護衛を増やすようにとも勧めたのだが、直弼はどちらも断ってしまうのである。護衛の数は法によって定められているので大老自らがそれを破るわけにはいかないというものであった。
 彦根藩の家臣たちも直弼の身を案じ、密かに護衛の数を増やしていたのであるが、これを知った直弼は増員をやめさせており、危険が迫っていると知りながら、自分の身を守ろうとはしなかったのである。直弼は自分が死んでしまってもかまわないと思っていたのかも知れない。
 「安政の大獄」の反動がやがて直弼自身の身にふりかかってきたのだ。安政7年3月3日、直弼は刺客の手により斬首され最期を遂げたのである。

 井伊直弼の死は、世の中を大きく動かした。
 幕府の大老が白昼堂々と斬首できる事実は、相手を殺してでも自分の意見を押し通し、不都合な相手は殺してしまうという行為が、大手を振ってまかり通る時代になってしまったのだ。テロの時代の始まりであった。

 とかく政治家というものは命を狙われ易い職業だ。国や人を動かすにはそこに必ず敵はいる。伊藤博文、原敬、犬養毅に高橋是清など、暗殺された総理大臣や政治家は数多い。


(参考文献:歴史の読み物)

(記者:関根)


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