岡山は災害の少ない恵まれた地域だと以前から言われていました。 しかし、明治17年(1884年)の水島高潮津波は福田新田の海岸堤防を1200mに渡って決壊させ、北畝、中畝、南畝、東塚、松江、古新田、広江、呼松を濁流に飲み込み、計541名の方が犠牲となった水害も発生していました。 この水島の水難事件から百数十年を経て、多数の被災者の出た今回の真備町の大水害でした。受難者の方々には心よりのお悔やみを申し上げます。 救援体制が予め準備されていなかったことは何とも無念な思いです。当日の夕方に倉敷市内各地に設置されててある広報スピーカーから伊東市長の声で盛んに避難勧告が流されていました。私の住む地区では「東学区の方は東小学校に避難してください」と繰り返し呼びかけをされていましたが、近所の誰一人避難を始める方はおられませんでした。高梁川がよもや決壊するとは想像すらできず非難することは考えておられなかったようです。 でも状況は緊迫しつつありました。
「高梁川水系に繰り返す洪水 180年間に36回の水害」
繰り返して起きる水害も時がたつにつれてその記憶は忘れ去られていきます。 吉備の穴海の干拓が、早島から向山を経て酒津(黒田)にいたる宇喜多土手の内域から始められ、先ず倉敷の旧市街から生坂にかけての一帯が陸地化されました。この塩止め堤防から沖の海域にかけて埋め立てが進められました。今でも『沖』、『笹沖』の呼び名が残っています。 船穂から玉島にかけて、また藤戸を抜けて彦崎から灘崎沿岸が埋立てられ、明治になってからは国策に従がい児島湾周辺の藤田、興除の干拓が行なわれました。 この干拓に伴って整備されたのが酒津から分岐する高梁川と東高梁川の水系です。東高梁川は酒津池から始まりまっすぐに南下し、中島交差点から江長十字路を抜け河口は現在の水島港となっています。
「吉備郡史下巻」4002頁には次のような記載があります。
『寛文四年(1664年)に始まり天保五年(1834年)に終る百七十年間に亘りて前後三拾六回の起返を行ひしこと即ち平均五年弱に一回の水害を被りしこととなる。』 その後の時期、1850年(嘉永三年)に起きた嘉永洪水の様子は次のようなものでした。
流れ下ってきた土石流は酒津を過ぎてから流速の衰えもあって隘路となる五軒屋あたりから上の四十瀬にかけて大量に堆積していき、東高梁川の流れを止めてしまったようです。その結果、四十瀬から安江にかけて堤防の東面が決壊し、東高梁川から流失する流れは倉敷村を飲み込み帯江、藤戸、茶屋町、早島と水没させていったそうです。興除地域にも及んだということです。帯江から早島にかけての水深は6尺から7尺(約2m)とあります。倉敷村はそれ以上の水深になったことが想像されます 粒江の住人の手記に次のような記録が残っています。
五月の末頃から雨が降り続いた。六月三日の夜十時頃、安江と四十瀬の堤防が決壊し水が溢れ出したと見る間に水かさが増していき、あっという間に床の上まで水が押し寄せた。低いところでは軒先まで濁水に漬かるありさまとなった。何しろ夜中のことなので女や子供達は逃げる暇もなく、ただ助けて助けてと泣き叫ぶ声が闇夜に聞こえてはくるがどうしてやることもできず、哀れで悲しくともただおろおろするばかりである。 翌四日の昼頃まで水嵩は高く濁流が押し寄せてきたが、夕方頃にはやっと濁流の勢いも弱まった。日数がたつにつれて、決壊した箇所の応急修理もできて一息ついたかに見えたが、六月二十日頃になって、また夕立が激しくふり、応急修理した土手は再び決壊して洪水となった。
この嘉永三年から約34年たった明治17年に先の説明にある水島高潮津波災害が起きました。
今回の真備町の災害は120年ぶりといわれていますが正確には125年前の明治26年の災害からになります。
明治26年10月1日、台風の暴風雨により増水した高梁川の西側の土手が神在村下原で決壊し、濁流が川辺を襲った災害です。川辺の住民は二階建ての家屋や本陣宿に逃げ込みました。二階に逃げられた住民は助かりましたが一階にいたものは増水した流れに押流されてしまったといいます。岡山県内の死者は423名でした。
「高梁川嘉永洪水絵図」
(早島町戸川家記念館 早島町教育委員会所蔵)
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