伴林光平風の森に和歌を詠む
西口紋太郎著「天誅組重阪峠」より 前稿、吉村寅太郎隊「風の森峠に布陣」のちょうど7日前の文久三年8月17日、五條代官所が襲撃されている時刻にここ、 風の森峠に辿り着いた一人の志士がいた。国学者伴林光平である。
伴林光平(ともばやしみつひら) 「南山踏雲録」の著者伴林光平は、大坂薩摩堀の教願寺で開かれた歌会におもむき滞留中、 同志平岡鳩平(後の北畠治房男爵)よりの手紙を受け取るも遅れて五條へ駆けつけた。 光平は文化十年(1813)生まれで五十歳、同志藤本鉄石(四十八歳)と共に組中の年長者であった。 光平は河内国道明寺村、尊光寺の僧侶の子として生まれ、十六歳の時、西本願寺学寮に入り、仏学を学び、 大和薬師寺、郡山光慶寺等で研究生活を送り、やがて京都西本願寺学寮の教授となる。 後、飯田秀雄に国学を、加納諸平に和歌を学び、歌人としても光平は斑鳩の中宮寺の侍講となり、 各社寺の歌道の師範として活躍する等、乱世の時代得難き文学者であり国学者であった。 中宮寺駒塚の家はたった八畳一間であったが、彼は平気で安居していた。彼の戯作に
住居こそ八畳敷に足りねども
眼玉ばかりは狸も閉口 人並み外れて、眼玉が大きかったか、彼の自画像にも、坊主頭に太刀をさし、風呂敷包をになったのがあるが、その眼玉もギョロリとすごく大きく画かれている。
木の刀かせぐに追いつく貧乏なし
奈良の稽古場 ほうりゅうじ
十日で祝儀が二歩のこる
木の刀とは武士の両刀に対し文人の筆を言ったのであろうか?たとえ木の刀であっても、稼ぐに追いつく貧乏はないというのである。二歩とは当時の金銭の単位。 よくユ-モアを解した、ものわかりのよい人柄が偲ばれて、人懐っこさが感じらる。と描かれています。
治乱荒亡敢莫論
ちらん こうぼう あえてろんぜず
皇威畢境東藩属
こうい ひっきょう とうはんにぞくす
園林花発風光美
えんりんはなひらき ふうこううつくしい
亦与友人倒一樽
またゆうじんとともに いっそんをたおす
光平が残した上の七言絶句はあまりにも有名な詩ですが、如何に光平が徹底した尊王の士であり、しかも気宇雄大な国学者であったかが窺い知ることができます。 頂上、志那都彦神を祀る小さな祠の前に辿り着いた光平は、同志が今、代官所を襲撃している事を知る由もなく、やがて矢立を取り出し一首の和歌をしたためた。 有名な「夕雲」の和歌である。
夕雲の所絶(とだえ)をいづる月を見む
風の森こそ近づきにけり
光平はこの歌を残し翌八月十八日五條に着くや直ちに一党に加はり、忠光より、軍記録係兼参謀の重職を命ぜられています。 そうして彼はやがて捕えられて獄中で有名な「南山踏雲録」を書くのであるが、その一節にこう書き遺しています。
「かの十七日、風の森を立ちて今しばしと打喘ぎて急ぐほどに、初夜すぐる頃五條に着く、 かくして楢屋という旅亭に入りて事の趣を問ひ試みけるに今日しも申(さる、午後4時) ゆくりなく押寄せ来りて、政府の首領はじめ五人の首級を打取りて、今唯今、刀槍等の血 を洗ひなどし給うなりといふ、さらに行きて見んとて、桜井寺といふ浄家の寺に入りて見 るに、堂前の水溜の上に板戸掛け渡してその上に首級五個血にまみれたるを打置きたり。 十八日朝、中山卿に謁す、精々、天朝の御為に忠勤有るべき由仰せらる、即ち軍記草案 の役儀を蒙る。」(原文のまま)
風の森の小さな祠の前に立つと、吉村寅太郎の戦勝祈願の様子といい、伴林光平の詩といい、臨場感に満ちた雰囲気に浸ることができます。 国道24号線を走っていて、いつでも寄ることが出来る場所にあるものの、つい通り過ぎてしまう人も多いことと思います。 風の森山頂といっても風の森バス停から西へ徒歩でも五分ぐらいではないでしょうか。 是非一度は天誅組史跡として訪ねられることをお薦めします。
読者コメント