4.平九郎、彰義隊に加わる
◆江戸・本銀町を歩く
8月猛暑のある日、都内の日本橋室町3丁目にいた。
ここは慶応3年10月、平九郎が渋沢栄一の見立て養子となり江戸に出てきた時に住んだという本銀町のあたりである。現在は本銀町の地名はなくなっている。どんな町だったのだろう。
東京駅八重洲口から中央通りを日本橋方面に歩く。日本橋付近は江戸時代、吉原遊郭や芝居小屋(猿若三座)とならび、一日千両が動いたという魚河岸があった。切絵図には本船町、小網町、長浜町など魚に関係する町名が多くみえる。景気の良いにぎやかな地域であった。
日本橋を渡り三越本店やコレド室町を通り過ぎたあたりで江戸通と交差する。室町3丁目交差点である。
室町3丁目交差点をまっすぐ(北)に行くと神田の職人町である。切絵図には大工町、鍛冶町、鍋町、塗師町などそれらしい町名が並ぶ。この界隈には大工が多く住んでいたらしい。時代劇では年中喧嘩ばかりしている連中である。現在は神田駅の雑踏がある。
室町3丁目交差点を左(西)に向かうとすぐに新常盤橋があり、そこは外堀通りである。日銀の高い塀が見える。このあたりには江戸時代の切絵図をみると金吹町、金座とあり江戸時代からお金(金貨)を造っていた。
室町3丁目交差点を右(東)に行くと伝馬町(てんまちょう)牢屋敷跡で有名な十思公園がある。切絵図では牢屋敷のあたりに石出帯刀(いしでたてわき)と記してある。2600坪余りの牢屋敷の敷地のうち、480坪が石出帯刀の住居であった。石出帯刀は牢屋奉行の世襲名である。
有名な石出帯刀は石出吉深。天明の大火の時、囚人の命を救うため獄中の120人全員を牢から出し、鎮火したら下谷の善慶寺へ戻ること約束して解き放した。帰ってくればわが身に変えても命を助けるが、逃げたものは必ず探し出して厳刑にすると言い渡した。この人情味溢れる処置に囚人たちは感激し、一人残らず帰ってきたという。それ以来、大火の時は牢払い(囚人を開放すること)が行われるようになった。落語や時代劇でおなじみである。
手もとにある幕末(安政6年)の切絵図「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」には大名屋敷などは大川(隅田川)沿いに少しあるだけで、大半が町家であった。本銀町の南隣は本町、本石町、十軒店などの地名が見え、越後屋など呉服商も多かった。
平九郎は江戸の下町のど真ん中に住み、江戸の賑わいを実感していたのだろう。前回、「平九郎江戸へ」の項でみたように、ここで文武の修行に励み、幕臣としての生活が始まった。
◆平九郎の幕臣としての矜持
北区飛鳥山の渋沢史料館で開催されている「渋沢平九郎」収蔵品展に行ってきた。
史料館の展示は、「幕末のイケメン!渋沢平九郎展」(深谷市渋沢栄一記念館)とは違った視点から、平九郎の江戸における幕臣としての活動の様子を紹介していた。
渋沢栄一の養子となった平九郎は慶応3年10月13日に郷里を出立し江戸へ向かう。平九郎の実の姉であり、渋沢栄一の妻でもあるちよは、平九郎が江戸に出立するにあたり「栄一の子となって主君の禄をもらうからには、もし事があったならば、栄一に代わって忠義の道を尽くすよう」(史料館展示資料)に諭したという。
平九郎が江戸に出た頃、10月14日には徳川慶喜が大政奉還を行う。12月9日には王政復古のクーデターがあり、京都は風雲急を告げる状況となる。
平九郎は江戸において慶応4年の新年を迎える。
間もなく鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れたという情報も入ってくる。「平九郎は、幕臣の子として心を痛めながらも国事周旋に勤める覚悟をし、フランスにいる栄一の早期帰国に期待」(同上)していたのであった。
しかし、主君と仰ぐ徳川慶喜は朝敵となり、2月12日には上野寛永寺(大慈院)に謹慎する。この頃から平九郎の本銀町邸には従兄の渋沢成一郎や実兄の尾高惇中らが何度も集まり「有志の徒を集め、輪王寺宮能久親王を奉じて慶喜の冤罪を雪ぐよう哀訴すること」(同上)を話し合った。
さらに、従兄の須永於菟之輔(おとのすけ)ら旧一橋系幕臣を中心としたグループなどと合流、2月23日には浅草本願寺(現・東本願寺)において、彰義隊が結成され、渋沢成一郎が初代頭取、副頭取に天野八郎、須永於菟之輔が幹事となる。「平九郎も第二青隊伍長に就任して江戸市中旬羅に努め」(同上)ることになった。伍長とは下士官の一番下の階級で、平兵士5人を束ねるような役割らしい。
後日(4月28日)、彰義隊が分裂し平九郎は江戸を離れる事になる。「江戸本銀町邸を脱する際、自邸の障子に『楽人之楽者憂人之憂 喰人之食者死人之事』を大書。留守をする親友・根岸文作に自分は死んでみせると喜んで自邸を後にする。」(同上)
障子に残した書が遺書となった。人(主君)の禄を食むものは人(主君)の事に死すといったことだという。
◆彰義隊発足の地、浅草本願寺を歩く
本銀町から浅草本願寺(現・東本願寺)に向かう。
室町3丁目交差点を江戸通りに入り、隅田川方面へ。途中、十思公園で伝馬町牢屋敷跡を見る。小さな公園の中に伝馬町牢屋敷の石垣や吉田松陰の墓、江戸最初の時の鐘「石町(こくちょう)時の鐘」などがあった。
かつて繊維問屋街として賑わった馬喰町を抜け、隅田川にそって北上する。
南中から少々西に傾いた太陽が建物の東側に細い影を落としている。この細い影をたどれば浅草まで行けると思って歩いていると、前方からも影を頼りに歩いてくる人がいる。どちらかが日陰を諦めないとすれ違えない。ジャンケンするわけにもいかず、気の弱い方が日向に出ることになる。
浅草で、雷門に面した江戸通りに入り、上野方面に向かう。かっぱ橋道具街の手前に東本願寺があった。境内は盆おどりの準備でいそがしく、観光客がうろうろするような雰囲気はなかった。
東本願寺は、外から眺めただけであるが、それほど大きな寺院ではなかった。しかし、案内によれば、江戸時代(初期)には「東西102間、南北109間の広大な寺域、徳本寺以下24の塔頭(たっちゅう)を持っていた」という。約三千坪の敷地に子院が24もあったということだ。
先に見たように、ここで慶応4年2月23日、彰義隊が結成された。彰義隊結成のための会合はすでに雑司ヶ谷や四谷で3回開かれ、徐々に参加者が増加、4回目のこの会合では130名が参加した。彰義隊は浅草本願寺を拠点とする事に決めた。本願寺側はいやがったらしいが、300畳敷の大広間を提供することになったという。
その後、隊士の人数も増え手狭になり、また、謹慎中の慶喜警護のためもあり、3月9日拠点を上野寛永寺に移すことになる。それに伴い平九郎も数名の隊士とともに上野付近に止宿する。平九郎は彰義隊士として江戸市中の治安維持に務めていた。
そうした中で水戸藩の一派との連携の動きがあった。そのため、情勢視察や北関東の名士への遊説のため水戸へ向かう事になった。この水戸行きは平九郎が強く主張したものらしい。
◆世良田、例幣使街道を訪ねる(平九郎の水戸行き)
慶応4年3月上旬、平九郎ら数名は江戸から中山道で渋沢栄一の実家中ノ家(埼玉県深谷市)に集まって1泊、その後、利根川を越え上野(群馬県)に入り、例幣使街道木崎宿から下野(栃木県)の例幣使街道梁田宿、さらに小山、小金井を経由して水戸へ入っている。小山は私の故郷である。妙なところに接点があった。
9月のある日、渋沢栄一の生家から例幣使街道の木崎宿、梁田宿などを車で訪ねてみた。
深谷市のはずれ、利根川沿いに渋沢栄一の生家がある。「中ノ家(なかんち)」と呼ばれ、保存公開されている。平九郎の生家の「尾高惇中生家」は歩いて10分ばかりのところあるが、平九郎は渋沢栄一の養子となっていたので、中ノ家に一泊したのであろう。
平九郎が宿泊したのはかやぶき屋根の建物だったが、すでに焼失しており、現在の建物は明治28年に再建されたものである。
ここから上武大橋で利根川を越えて群馬県に入る。上部大橋の埼玉側に中瀬という地名がある。中ノ家の案内をしていたボランティア氏によれば、かつて中瀬は利根川の舟運で栄え、人の往来も中瀬からの渡し舟があった。たぶん平九郎たちも中瀬から舟で渡ったのだろうという。
上武大橋を渡るとすぐに世良田東照宮があった。木崎宿を目指していたが、気になったので寄ってみた。
世良田は徳川家発祥の地だという。町おこしでむりやりこじつけたのかと思ったが、そうではなかった。
このあたりは現在の地名では群馬県太田市であるが、かつて新田荘(にったのしょう)として栄えた荘園であった。東に隣接して栃木県足利市があり、こちらも足利荘(あしかがのしょう)として栄えた。
新田荘と足利荘はもともと源義家(八幡太郎義家)の領地から別れたものであった。鎌倉末期の同じ時期に新田義貞と足利尊氏が華々しく登場した。そして、新田義貞が足利尊氏に敗れたことで新田荘は落ち目になっていく。
江戸時代、三代将軍徳川家光は世良田が徳川氏の先祖の地ということから、世良田に日光東照宮古宮を移築し、家康をお祀りした。世良田は将軍家の厚い庇護を受けるようになり発展した。
平九郎たちもこの地を通ったはずで、東照大権現に必勝祈願をしたのではなかろうか。
ついでのことだったので、新田義貞が鎌倉を攻めた際に、必勝祈願をしたという生品神社をお詣りしてから木崎宿に向かった。
木崎宿は例幣使街道の宿場町として栄え、大きな遊郭があったと伝えられるが、見事になにも残っていなかった。新田木崎町という信号のある交差点に、日光例幣使街道木崎宿と記した大きな石柱があるだけであった。
日光例幣使街道は中山道の脇街道である。碓氷峠を越え江戸に南下する中山道が、倉賀野(高崎市)で東に分岐する。木崎は倉賀野から4つ目の宿場である。
木崎から東に向かうと梁田宿がある。梁田宿は戊辰戦争における東日本最初の戦いの地として知られている。
梁田戦争は慶応4年3月9日早朝に勃発した。この年は閏4月が入るので、彰義隊の上野戦争の3ヶ月以上も前である。
東軍(幕軍)約900名は午前7時、早朝出発予定で朝食の準備中のところ、西軍(薩摩藩四番隊、大垣藩、長州藩)約200名が急襲し、梁田宿一帯は市街戦となった。三方から包囲する西軍に、宿場の中に追い込まれた東軍は次々と戦死者を出し、午前10時頃戦いは終わった。
梁田には、幹に砲弾を受けた「弾痕の松」(足利市重要文化財)や幕軍戦死者64名を追悼した「梁田戦争戦死塚」(足利市重要文化財)などがある。
梁田公民館には梁田戦争の「弾痕の柱」や「西軍の大砲丸」、幕軍が使った「火縄銃」、西軍のスペンサー銃から撃たれた「小銃の弾」などが展示されていた。展示室は一部物置状態で見るのに苦労した。
梁田宿の戦いは3月9日、平九郎たちが渋沢家を発ったのが3月中旬なので、戦いの直後に梁田宿を訪れたことになる。市街戦が行われたという梁田宿は混乱のさ中であっただろう。友軍の敗戦の跡をどんな思いで見ていたのだろう。
平九郎たちは梁田宿からさらに例幣使街道を佐野、栃木に向かう。栃木で例幣使街道は日光方面に北上するため、例幣使街道から別れて東に向かい、小山、小金井を経由して水戸上町に至る。
水戸でどんなことがあったのかは分からないが、身の危険を感じ、一時鹿島(茨城県)に数日間移動、再び水戸に戻るなどの動きがあった。平九郎たちはその後しばらく水戸に滞在し、4月初旬には江戸に戻る。そして、4月下旬には彰義隊脱退、田無での振武軍の結成へと突き進んでいく。
(大川 和良)
彰義隊発祥の地・浅草本願寺(現・東本願寺)
日本橋室町三丁目界隈(平九郎が住んでいた旧本銀町界隈)
渋沢栄一生家中ノ家(埼玉県深谷市)
世良田東照宮(群馬県太田市)
日光例幣使街道・木崎宿跡(群馬県太田市)
日光例幣使街道・梁田宿の弾痕の松(栃木県足利市)
2024年春季号 vol.5
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