海底都市、倉敷のお話!
今回は、地元の岡山倉敷に付いて書かせて頂きます。
倉敷や岡山は、かつて海でした。ご存じない方が多く、海だと知って目を丸くして驚かれます。岡山平野が人口造成地だったなんて、知らなかった~なんて調子です。それにつられてでしょうか、私も往時を偲んで想像を逞しくしている昨今です。 そこで、かつての吉備の穴海のことを調べてみました。
奈良時代末期頃、日本の総人口は250万人程だとされています。平安末期でも400万人、鎌倉期で500万と言われています。人口密度は現代の約50分の1、居住スペース的には実にゆったりとしていますね。でも水田開発もままならず、食糧生産も限られていた時代ですから、この程度の人口扶養力しかなかったのです。しかし、海産物資源の潤沢だった吉備地方は恵まれていました。出雲地方の勢力を凌駕し、経済的な地盤の整った先進地域でした。
平安時代になると、備中守護領や寺社の荘園が次々と造営され、児島は平家の家人の根拠地として統治されるようになります。そんなわけで、いずれこの付近は源平合戦の舞台となり、ご存知の、玉島乙島に陣を構えた源氏方と柏島の平氏方の双方が海上で戦った水島の戦や、佐々木盛綱で有名な藤戸の戦いが起こります。それが今や、陸地となっています。今から400年ほど昔に干拓が始まりました。
続きます。
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