幕末維新史について語られる時、それまでと全く異なる種類の史料が提示されるようになる。それは、時代を写した写真である。
幕末から維新の我が国の姿を確かに残した人物として、英国人写真家フェリーチェ・ベアトがいる。文久3年(1863)に来日したベアトは、明治17年(1884)まで滞在し、幕末から維新を目の当たりにして多くの写真を撮った。彼は、日本での20年余りに時の人物や戦いの実相を写した貴重な写真を残しているが、私が一番興味深く見るのは「江戸の風景」である。
その中に三田の会津藩下屋敷とその脇を走る綱坂を捉えたものがある。幕末の江戸では三百近くの諸侯が、一部に例外はあるが、それぞれ上、中、下屋敷を構えていて、大名屋敷の数はかなり多かったはずだ。
そのような江戸の状況で、彼が会津屋敷を選んだ理由は不明である。もしかしたらベアトは、時代の変遷を敏感に察し、会津を選んだのかもしれない。新政府によって朝敵とされた会津藩の江戸における全ての屋敷地は、明治になって直ぐに細かく分割されたり、道路や鉄道の下に埋没した。今ではこの写真が、わずかに当時の様子を知らせてくれるだけなのだ。
(当誌2018年12月号拙稿【都内、幕末維新史跡・九】会津藩江戸屋敷)
「愛宕山から見た江戸のパノラマ」と題した彼の作品がある。愛宕山の山頂から撮影した江戸の風景写真である。そこには、はるか先まで大名や旗本の屋敷と寺院などが広がり、真黒な瓦屋根と長い白壁が美しい対比を見せる維新前の平穏な江戸の街が写されている。
古い写真は歴史上の街を今に伝える貴重な史料だとする記事が、平成24年(2012)8月30日付の日本経済新聞(夕刊)に掲載された。
函館市の中央図書館が所蔵する函館港や市街地を写したパノラマ写真が、戊辰戦争最終の箱館戦争末期、明治2年(1869)に撮られた可能性が高いことが分かった。その写真は中央図書館の目録から20年代の撮影とされてきたが、この度の市立函館博物館の調査により訂正された、と日経新聞が報じたのだ。
市立函館博物館では、箱館山から見たパノラマ写真を拡大して調べた結果、沖合に停泊の船が旧幕府軍の蟠竜丸、回天丸、千代田形丸とみて、入港記録から2年4月から5月撮影の可能性が高いとした。三隻の軍艦は同年5月までに、新政府軍の攻撃によって全てが湾に没しているからだ。
その写真は、戦争で壊滅的に破壊される前の箱館を、今に伝える貴重な史料となった。
私の曾祖母の回想記「光子」には、10枚ほどの写真が載せられている。ほとんどは昭和以降に撮られたものだが、明治初頭の写真が一枚だけある。
それは、5年(1872)に光子が小間使いとして奉公した青森県大参事・野田豁通の屋敷内で、彼とともに撮られた一枚だ。この時12歳の光子は、レンズから目線を外してちょこんと行儀よく正座し、28歳の野田は、お盆(?)の提灯を手に胡坐で座っている。全体として、とてもリラックスしたスナップ写真というべきもので、幕末の志士たちを撮ったものとは大違いだ。
県大参事という厳めしい役職から想像もできない野田の印象は、気さくな兄貴といった感じである。彼は、人は皆平等という思想をもった、その時代に稀有な人物だった。
東北の地で野田の薫陶を受けた十代の柴五郎、後藤新平、斉藤実らに対しても同じように接していたことを彷彿とさせる一枚の写真が、厳しい身分制度による理不尽な上下関係の崩れる様を伝えている。
私は、少女光子の写真が残されたことに感動する一方、維新からたった5年の青森で、このようなスナップ写真が撮られたのに不思議を感じていた。その当時、写真を撮るという行為が今のように一般的だったとは、とても考えられなかったからだ。
青森市在住のジャーナリストM氏は、幕末維新の青森を追いかけて永い。私の疑問に彼は、「まず、早い時期に国際港となった函館に写真の技術が定着し、それが距離的に近かった青森へ移出された。明治初頭の青森では、かなり写真が普及していた」と返してくれた。
我が国における写真文化は、長崎、神戸、横浜、東京、新潟、函館そして青森と、同時多発的に定着していったのだ。
(鈴木 晋)
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
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