会津戦争に敗れ、朝敵の汚名を着せられたまま時代が過ぎ、会津の暗い時代に明かりが射したのは昭和になってからのことであった。
昭和天皇の弟宮である秩父宮雍仁親王と松平節子の結婚が決まった。節子の父の松平恒雄は、幕末に京都守護職を務めた会津藩主・松平容保の四男。この結婚は、ながらく「朝敵」とされた会津関係者にとって、きわめて大きな転機となり会津の人々を勇気付けることとなったのである。
松平節子は明治42年、旧会津藩主松平容保の四男で当時外交官としてイギリスに滞在中だった松平恒雄の長女としてロンドン郊外で生まれた。誕生日の9月9日、重陽の節句にちなみ「節子」と命名された。母は潤沢な資産を持つことで有名な旧鍋島藩主であり、のち外交官を勤めた侯爵鍋島直大の四女信子。その姉は梨本宮妃伊都子である。信子は結婚当時、イギリスに駐在していた恒雄のもとへ、19歳の時に日本から一人で船に乗り嫁したという気丈な人物である。
節子は父の転勤に伴い、天津の小学校で二年まで過ごすが、その後帰国、のち女子学習院に通う。そして大正14年(1925)、15歳の時に駐米大使となった父とともに米国に渡り、フレンド・ スクールという私立のハイスクールに通学した。勉学もさることながら豊かな才能を発揮し、充実した学生生活を過ごしていたのである。その米国滞在中に、節子は大正天皇の危篤の報を受け留学先のイギリスから帰国途中の秩父宮雍仁親王と大使館で対面している。
その頃、宮中では秩父宮雍仁親王の御妃探しに頭を悩ませていた。秩父宮雍仁親王の御妃はどのように選定されたのか。貞明皇后の内意を受け、政府高官と審議を重ね、このときは皇族、および華族中より選ぶこととなっていた。親王の妃を皇族・五摂家から選択するという従来の範囲を華族にまで広げるというものであった。
しかし適当な人物がみつからず、大正14年1月22日に宮内大臣の牧野は赤坂御所で皇后に拝謁し、松平恒雄の長女節子にまで拡大する方向付けをした。そしてその年の3月までに皇后は節子のことを秩父宮に話し、秩父宮も節子を大変気に入り、写真も手元に納めたのである。
この話は会津出身で東京帝国大学総長、九州帝国大学初代総長、京都帝国大学総長を歴任するなど、近代日本の教育界を中心に大きな足跡を残した人物「山川健次郎枢密顧問官」が大きな役割を果たした。山川は「品は悪しからず、容貌は並以上、色白く穏和の性質と見受けたり」と牧野宮内大臣に感想を伝えている。
しかし、節子の父の松平恒雄自身から「皇族妃となるには地位がふさわしくない」と辞退の申し出があったのだ。
ところが貞明皇太后は、身分等「嫌うには及ばない」といい、秩父宮も好んだ様子を見せたのである。そして恒雄の旧友であった樺山愛輔をアメリカに説得に派遣することとなったのである。恒雄が心に抱いている「会津は朝敵」という思いは、微塵も問題にされず人物本位で節子を御妃に選んだのである。
当の節子本人はこの婚儀をどう思っていたのか。アメリカ在住で、まだハイスクール卒業前の節子にとって、親王の妃となることは、あまりにおそれ多いことであった。自伝「銀のボンボニエール」で「一平民として何の心構えもなく18才まで育った者が急に皇族という身分になれるわけがなく、生きていかれるはずもないということ、しかも、かつて前例もないことを何故この私が」とその戸惑いを述べているのだ。だが、身近に仕えていた旧会津藩士の家の生まれである高橋たかに「会津魂」という言葉を聞かされ、何とも知れぬ強い力がすっくと立ちあがったのを感じ決意へとつながっていったのである。節子自身が朝敵の汚名を掃う使命を自ずから持って嫁いだといえるのかも知れない。
「節子」が「勢津子」となったのは、貞明皇太后の名前が「節子(さだこ)」だったため改名せざるを得なかった。伊勢の「勢」と会津の「津」をとって勢津子と決まったのであるが、この名前は皇太后の選定ではあったが、「津」にこだわったのは勢津子妃の父である松平恒雄の可能性が高く、松平家の会津に対する思いが込められているのではないだろうか。改名は9月17日、婚礼の約10日前であった。
秩父宮と松平節子の結婚の決定に会津の人々は歓喜した。節子は1928年7月26日から4日間、会津に帰省した時「会津の復権がなった」と泣いて喜んで下さる人々がいたと自伝に綴っており、全日程に同行した山川健次郎も「人々の情緒は狂喜というくらいに思いました。戸々皆国旗を掲げ、あるいは提灯をつるし、道ばたに堵列して歓迎し、自動車が進みがたいことがあった」そして「会津滞在の四日間は泣き続けた」と語ったのだ。
山川健次郎は勢津子妃の婚儀を見届けた後の1931年6月26日、激動の人生を終えた。
また秩父宮は1953年に50歳という若さで薨去した。 勢津子妃は1995年(平成7年)薨去。享年85であった。
孝明天皇から授かった御宸翰をかたくなに守り続けた会津藩主松平容保、秩父宮と松平節子の婚儀を草場の陰でどのように思ったか。きっと願いが叶った瞬間だったかも知れない。
馬車に乗り婚儀に向かう勢津子妃
2024年春季号 vol.5
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