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ザ・戊辰研マガジン

2021年03月号 vol.41

日新館天文台跡

2021年02月22日 18:53 by tetsuo-kanome
2021年02月22日 18:53 by tetsuo-kanome

【日新館天文台跡】

 

  会津若松市のシンボルであります『鶴ケ城』から西に5分ほど住宅街を歩くと、石垣に覆われた高さ数メートルの構造物がひっそりと建っているのが見えます。江戸時代、会津藩の藩校「日新館」にあった『天文台跡』の一部であります。水戸や薩摩などいくつかの雄藩が天文台を持っていましたが、当時の遺構が現存しているのは会津だけで、日本天文学会は2019年、オーロラなどが記述された藤原定家の「明月記」とともに日本天文遺産の第1号に認定しました。江戸時代の天文台とはどんなものだったのか。会津若松市の教育委員会文化課によると、日新館が完成したのは1803年。会津松平家第五代藩主の松平容頌(かたのぶ)の時代に実施された藩政改革の柱に「教育の振興」が掲げられ、建設されました。鶴ケ城の西隣の約2万8000平方メートルの敷地には天文台のほか、日本最古のプールとされる水練用の池なども設けられておりました。上級藩士の子弟は10歳になると入学が義務づけられ、1000~1300人が学問や武芸の徹底したエリート教育を受けていたといいます。しかし、戊辰(ぼしん)戦争でほとんどが焼失し、現在は天文台の南半分が残るのみです。遺構の上部にほこらがありますが、これは取り壊されるのを防ぐために昭和に入ってから地主が建てたものだと考えられております。江戸当時は石垣もなく、底面が約22メートル四方、上部が約10メートル四方のまさしく「台」でした。会津若松市出身の渡部潤一・国立天文台副台長(60)によりますと、太陽の地平線からの高度を知るのに使われた「圭表儀(けいひょうぎ)」が天文台の上に乗っている絵図が残っているといいます。太陽の高度が高くなれば影が短くなり、低くなれば長くなる原理を応用した当時の一般的な観測機器です。影が最も長くなる日が冬至で、暦の起点になったといいます。

 当時の暦は幕府が作成し、それを元に各地方の季節に合わせて農作業の時期などの注釈を加えた「地方暦」が作られました。渡部さんは「勝手に暦を作ることは許されていなかったので、日新館天文台は暦の仕組みを理解するための教育施設だったのではないか」とみており、「文武両道の文のシンボルです」と話しております。同県会津美里町に住む薄(うすき)謙一さん(53)は16年、渡部さんの講演会で、ここが唯一現存する藩校の天文台だと知りました。「存在自体は高校時代に知り、一度見に行こうとしたが場所が分からず、近所の人に尋ねてもご存じなかったため、あきらめて家に帰った覚えがある」と振り返る。天文台周辺の土地が売りに出されているなど、遺構保全への懸念を感じ、保存活動に乗り出しました。

 地元でもあまり知られていなかったため、まず認知度を高めようと、宇宙好きが集まる「会津そらの会」の大越陽子会長(50)ら仲間と協力し、圭表儀の復元・展示や講演会などに取り組みました。2018年8月には1000個のLEDキャンドルで天文台跡をライトアップしてアピールしました。2019年3月、天文台跡をPRする新聞の折り込みチラシのデザインを考えていた時、地元紙の記者からの電話で天文遺産認定を知りました。「うれしい半面、チラシのデザインを大幅に変更しなければならず、大慌てでした」認定後、市が周辺の土地の取得に乗り出すなど、保存・活用に向けた機運が高まっております。「天文学の学びの場が会津にあったことを知り、江戸時代と現代の天文学を併せて学べる場として活用されれば」。薄さんはそんな夢を描いております。

 会津藩校「日新館」の唯一の遺構が、この「天文台跡」です。まさに、会津藩の教育レベルの高さを証明される貴重な遺構として末永く保存して頂き、会津の誇りの一つとして一人でも多くの方に知ってもらいたいものです。

【記者 鹿目 哲生】

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