2014年4月過去帳より
2019年10月31日未明に発生した首里城火災。御庭(うなー)を囲む正殿、北殿、南殿、書院、鎖之間、二階御殿、黄金御殿、奉神門の計4800平方メートルを消失(正殿の中には、琉球王国時代から伝わる絵画や漆器、染織物収蔵)し、沖縄県の誇りが失われました。沖縄戦で破壊され沖縄復興と共に復元の道を歩んだ首里城は、沖縄の象徴、アイデンティティー、誇り、遺産、観光資源と様々な表情を見せてきた。火元は、正殿内部とされているが、外部からの延焼を防ぐための外壁に水の幕を張る消火装置「ドレンチャー」が設置されているが機能しなかった可能性があり、未だに原因は不明とされている。
かつて、大海原に船で乗り出し、アジアをつなぐ交易で栄えた琉球王国。様々な歴史の中で整備されてきたこの城公園は、年間200万人が訪れる場所ではあるが、修復までまだまだ長い年月がかかりそうだ。
【琉球新報より引用】
首里城は、小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、多くの施設が建てられていた。また、いくつもの広場を持ち信仰上の聖地を持っている。国王とその家族が居住する王宮、王国統治の行政機関である首里王府の本部、各地に配置された神女(しんじょ)を通じ王国祭祀を運営する宗教上のネットワーク拠点とされてきた。
では、琉球王国とはどういったものだったのだろうか。
約32000年前から人類が住み先史時代を経て、鎌倉時代の12世紀頃から一定の政治的勢力が現れはじめました。
各地に「あじ」と呼ばれる豪族が現れ互いに抗争と和解を繰り返しながら次第に整理・淘汰された。1429に尚巴志(しょうはし)と呼ばれる王があじを統括し統一権力を確立した。これにより、尚家(しょうけ)を頂点とする王国(第一尚氏王統)がはじまりました。
その40年後の1469年に、金丸がクーデターを起こし第二尚氏王統が尚円王(しょうえんおう)によりはじまります。
現在、観光化されている玉陵(たまうどぅん)と呼ばれる当時の板葺き屋根宮殿を表した石造建造物(お墓)が1501年に作られたり、園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)と呼ばれる王家の拝所(城外に出る時に、道中の安全祈願をする場所)が1519年に作られた。
その後、1609年に、薩摩藩が3000名の軍勢で琉球侵攻し占領したことにより表向きは、中国の支配下で、内実は薩摩藩と幕府の従属国という微妙な国際関係の中で存続していた。
最終的に、1879年に、日本政府により国王は追放され、沖縄県を設置したことで琉球王国が滅亡した。
時代は流れ、冒頭でお話した第二次世界大戦の沖縄戦で破壊されてしまう。
幾度の消失を繰り返してきた首里城。
長い年月がかかるかもしれないが、復興に向け歩んでいってもらいたいと思います。昨年のお城エキスポでも募金呼び掛けしてました。街で見かけたら是非、復興の後押しをお願いします。
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