東京には数多くの名が付いた坂があり、1000を超すと言われている。乃木坂、神楽坂、九段坂、道玄坂などよく知られている。最近は、けやき坂、六本木さくら坂など新しい坂も生まれた。坂にはそれぞれ歴史がある。
そんな中、普通の人にはあまり知られていない坂に「綱坂」がある。
綱坂は、東京都港区三田二丁目にある坂。三田綱坂(みたつなざか)、渡辺坂(わたなべざか)とも呼ばれる。
写真はイギリスの写真家であるフェリーチェ・ベアトが撮影したと言われる幕末の綱坂の風景である。
(当時はカラー写真はないので、私が色を付けてみた)
幕末の綱坂
現在の綱坂
ここは江戸時代には諸藩が屋敷を構えていた場所である。
坂のふもとから見て右側に島原藩松平主税頭の中屋敷、左側に会津藩松平肥後守の下屋敷、坂の上方右側に伊予松山藩松平隠岐守の中屋敷、左側に佐土原藩島津淡路守の上屋敷があり、坂の行き止まりには綱の手引き坂と久留米藩有馬中務大輔の上屋敷があった。現在、坂の左側には綱町三井倶楽部、右側には慶應義塾大学とイタリア大使館(元松平正義邸のち十五銀行)がある。
この辺りは江戸時代から「三田綱町」と呼ばれ、羅生門の鬼退治で有名な平安時代の武将・渡辺綱が付近に生まれたという伝説があり、「綱」という地名はここに由来している。綱坂の西側には三井倶楽部があるが、この三井倶楽部の綱町本館が建つ三田の丘陵は、東西南北それぞれ700m足らず、高低差もようやく30mばかりの小高い背台地である。
庭内に残る「渡辺綱」の産湯の井戸
渡辺綱が産湯をつかったという「綱の井戸」が、本館から西洋庭園におりたすぐ左側、銀杏の大木のもとにある。大きな自然石をくりぬいた立派な井戸枠がそれである。かたわらに高さ1mほどの石碑があり、その風化具合からも、長い歴史を持つ井戸であることは間違いない。
綱町三井倶楽部の建物敷地部分は佐土原藩島津淡路守屋敷跡であり、日本庭園部分は当時から名園として誉れ高い、会津藩松平家の広大な下屋敷跡を基礎としている。倶楽部の日本庭園もこの庭を基礎としている。
この綱坂を通った歴史上の人物は数多くいると思うが、幕末老中の井伊直弼を討つために通ったであろう水戸浪士の面々、さらには、会津戦争の全責任を一人で背負って命を落とした萱野権兵衛も死ぬ直前にこの綱坂を通ったとされている。
歴史を語る上で欠かせない場所がこの綱坂なのである。
江戸時代の地図
現在の地図
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