日本のお城というと、石垣に囲まれ、立派にそびえ立つ天守閣というのが一般的なイメージである。しかし城の形も分からないくらい、その姿を失ったお城も少なくない。
ここで話す磐城平城はその後者にあたる。
磐城平城址
新政府軍と奥羽越列藩同盟の諸藩が戦った戊辰戦争は新政府軍の勝利で終わり、全国の城や櫓(やぐら)、門、武家屋敷などは、新政府軍の所有物となった。
明治6(1873)年、「廃城令」によって、全国の城、陣屋はすべて「存城処分」と「廃城処分」に区分され、前者は陸軍省に、後者は大蔵省に委任されたのだ。
「存城処分」とは、建造物を保存しようとする、後の文化財のような考え方ではなく、陸軍の兵営地として城郭建造物や石垣、樹木などを整理することも含めて選ばれたものである。
一方廃城処分では、大蔵省の普通財産に所管替えされ、建物や敷地などが民間に払い下げられた。廃城処分となった城跡のなかには、豪商などによって城郭の全部、あるいは一部が購入された後に、地方公共団体に寄付、あるいは安価で引き渡され、城の復元や公園、学校などになった。
福島県において、存城処分となったのは若松城と白河城の二つだけで、いわき地方の城や陣屋はすべて民間に払い下げられたのである。
明治15(1882)年、旧城跡には家屋がなく畑地や草地へ転用された。内堀も湿田に生まれ変わっている。明治30(1897)年2月、日本鉄道磐城線(現JR常磐線)が開通し、平(現いわき)駅が開設されたとき、すでに堀はなかったのだ。
旧藩主・安藤信勇は、明治政府の命によって東京へ戻るが、その後、明治23(1890)年2月、旧平藩士・味岡礼質(のりかた)から安藤信守(明治5〔1872〕年に信勇から家督相続)へ、「旧城跡28番地」の宅地が譲与された。
安藤信守は、明治38(1905)年9月に旧城跡28番地から平窪村大字中平窪へ転居していることから、安藤信勇は最晩年、旧城跡に住んでいたことが考えられる。(明治41〔1908〕年に死亡)
安藤家の私邸は、その後関係者によって何度か改築され維持されてきたが、令和2(2020)年度からスタートした「磐城平城・城跡公園」整備事業の一環として取り壊され、跡地に体験学習施設が建てられることになった。
昭和25(1950)年8月に「文化財保護法」が公布され、昔の文化・芸術に光が当たるようになったが、一部を除き、城跡などを史跡として位置づける考え方は希薄だった。
地方経済が戦争の痛手から立ち直るなか、日本各地で空襲や天災で失われた城が鉄筋コンクリートで復元され、街のシンボルとなった。
平市においても、昭和20年代後期から平城跡保存運動がおこり、新名所として「平城」の建設が構想されたのだが、文化財的な発想ではなかった。
昭和30(1955)年の建設計画をみると、三層櫓の復元に際し、そのなかに産業館や美術館、図書館が盛り込まれていたのだ。
しかし、平市は昭和29(1954)年10月に周辺の豊間町、草野村、高久村、夏井村との合併を果たしたばかりで余力がなく、建設計画は進まなかった。
磐城平城復元の運動は、昭和39(1964)年1月に「平城建設期成同盟会」が発足し、再燃した。この時点においても、文化財という観点は薄く、観光施設としての傾向が強い計画であった。民間団体や有志が建設計画を主導するなか、綿密な計画はなく、市民から寄付を募って計画は進み、市は再建事業に置き去りにされた。
その理由は、昭和30年代半ば、磐城平藩主・安藤信正像が再建された際に市に打診がなく、建設費の不足を市補助で補ったという不手際があったこと、平市が14市町村合併に奔走していたことが挙げられる。
民間団体・有志は、市の後ろ盾が整わないままに昭和39(1964)年11月に起工式を挙行し、昭和40(1965)年4月に基礎工事に着手したのだが、資金不足に陥り、3か月で中断することになった。
城着工中断
磐城平城再建の挫折は、その後長い間、関係者のトラウマとなって容易に歳月の流れをとめることができず、市もまた時局の難題に忙殺され、丹後沢を整備するにとどまったのである。
この間、全国的に城跡に限らず歴史的建造物に対する見方が変化し、伝統工法に基づき建物を復元する例が出て来るのだが、原形で復元しようとすると、建築基準法や消防法などに抵触することになり、期待していたような観光客誘致には不十分である恐れがあった。加えて、埋蔵文化財の発掘調査が義務付けられており、幾つもの制約が待ち構えていた。
平成3(1991)年、文化庁が天守の再建については「史料をもとに忠実に復元しなければ認めない」とし、これが文化財級以外の城再建の考え方にも及んだのだ。市町村としても忠実に再現することにより文化的価値を高め、歴史教育や観光客を呼び込んだ方がブランド力があるという考え方が主流となって行ったのだが、再建にはその分、ハードルが高くなったのである。
その後、城跡整備の停滞が大きく動いたのは、これまでにない理由によるものであった。
それまでの磐城平城跡の所有者が亡くなり「土地が売られてしまうのではないか」という憶測が飛び交うようになった平成20(2008)年頃のこと。この報に接し、危機感を覚えた関係者による保存に向けて、有志による「磐城平城史跡公園の会」が発足(平成22年6月、正式に会が設立)し、いわき商工会議所まちづくり委員会の支援を得て、平成21(2009)年6月、「『お城山の保存と活用』について考えるシンポジウム」を催した。同年11月には磐城平城の歴史を学ぶ体験学習会「本丸跡を歩く・見る・考える」が本丸跡で開かれた。
こうした努力により、土地所有者の協力を得て、「平まちなか復興まちづくり計画推進プロジェクトチーム」が中心となり「歴史文化の活用」として本丸跡の周辺を整備するとともに、平成27(2015)年4月から6月、磐城平城跡地を一般公開。期間中は「平城さくらまつり」と銘打って各種イベントを開催し、関係者が磐城平城跡地の公有地化を市に要望したのである。
平成27年11月からは、まちづくり会社「たいらまちづくり」が跡地利用に関する窓口業務やイベント開催時の監督業務などを請け負うようになったのである。
さらに市制施行50周年に当たる平成28(2016)年には、4月から月ごとに磐城平城復元「一夜城」プロジェクトを展開、同年10月には、三階櫓と同形の高さ約13m、幅約11mの巨大看板を“一夜城”として再現し、夜間ライトアップするイベントを行った。
市はこのような機運を捉え、本丸跡地の公有地化に向けて準備を進め、平成29(2017)年4月から地権者との交渉、史跡調査に入り、同年8月、磐城平城の公園整備構想を発表したのである。
取得する本丸跡地は約1.5ha。「歴史伝承ゾーン」(三階櫓跡地付近)、「文化交流ゾーン」(文化コミュニティーゾーン)、「自然散策ゾーン」(白蛇堀周辺)の3ゾーンから成り、公園整備事業は同年3月に国の認定を受けた「市中心市街地活性化基本計画」(櫓、土塀などの整備を除く)に位置づけられたのである。
市はこれら公園整備の完成に向け、現在詳細設計、公園や広場などの施設整備を順次進めている。
本丸跡地
参考文献:「いわきの今むかし」
磐城平城本丸跡から、いくつかの江戸時代の器が出土したという記事を書いたが、今度はいわき駅南口の工事現場から内堀の遺構が見つかったという記事である。 城の内堀は埋め立てられ、現在のいわき駅が造られたわけであるが、磐城平城の古地図に現在の常磐線いわき駅を重ねてみると、なるほど、駅の南口西側(駅前開発工事現場)は内堀の南端に位置し、地下を掘れば内堀の痕跡が出るのは当たり前の事である。
古地図と常磐線
以下、福島民報の記事より
<磐城平城の内堀か?いわき駅南口で遺構発見>
JR東日本が開発工事を進めているいわき市のJRいわき駅南口で、磐城平城の内堀の一部とみられる遺構が見つかったことが三日、市などへの取材で分かった。江戸時代の絵図に描かれた内堀と遺構の位躍がほぼ一致し、同社の委託を受けた市教育文化事業団が発掘調査を始めた。
遺構が見つかったのは駅南口の駅ビル西側にある敷地。JR東日本の開発計画ではホテルや商業施設の入るビルが建設される予定。
開発に伴いニ月中旬から試掘調査が行われていた。
試掘調査では明治時代ころの石組みの構造物が見つかり、さらにその下の地層から磐城平城の内堀の南端部分とみられる土のくぼみが発見された。くぼみには江戸時代ごろの焼き物も埋まっていた。
市教育文化事業団によると、城本丸跡地の北側にある内堀跡「丹後沢」を除き、これまで内堀が出土した例はないという。担当者は「内堀だと分かれぱ江戸時代の絵図の信頼性が増す。道路や住宅が造成され、発掘ができない区域の遺構把握にも役立つ」と意義を語った。
現地に建設予定のビルは2022(令和4)年春の開業予定で、JR東日本は福島民報社の取材に「詳細を調査している。工期への影響は今後検討する」と述べた。
駅北側の高台にある 磐城平城本丸跡地では昨年、御殿跡らしい遺構が見つかり、市が国史跡指定に向けた作業を進めている。
磐城平城の内堀の一部とみられる遺檎が 見つかったJRいわき駅南口の工事現場
2024年春季号 vol.5
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