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ザ・戊辰研マガジン

2021年07月号 vol.45

「青天を衝け」14・15・16回

2021年06月25日 22:55 by katsukaisyu
2021年06月25日 22:55 by katsukaisyu

英一、武士になる

 時代の機運と、一橋家の用人になった平岡円四郎の要請により、英一と喜作は武士になるというキャリアアップ?を果たしました。武士になり、それぞれ名前が変わりました。喜作の方は「成一郎」が気に入ったようですが、英一の篤大夫(とくだゆう)は、本人的には今一つだったようです。どちらも明治になれば、元の名前に戻るとのことなので、本稿では英一と喜作で進めます。しかし、時代ですねぇ、農民がそう簡単に武士になるなんて、徳川の政権が安定していた250年間では、ありえないことでしょうに。いずれにせよ、幸運が重なり、英一たちは平岡のおかげで窮地を救われ、身分向上を果たしました。

 一橋家に仕官した当時の様子は、英一が60歳の頃に回想した「雨夜譚(あめよがたり)」に書かれています。幕末の動乱時に、京都に居た頃のことは、英一の長い人生の中で、最も困窮していたものの、若き血潮が燃え盛った、命を張った黄金の時代でもあったのでしょう。英一は細かいところまで、よく覚えています。英一が京都へ始めて来た時の宿は、三条小橋付近の茶屋久兵衛で、その頃の借金返済方法も細かく記憶していて、さすがに経済人だと思いました。 茶屋の場所はピンポイントではわからないのですが、現在、飲食店街になっている木屋町は、江戸期は旅籠町だったので、木屋町三条通り近辺ということでしょう。前々回に書きました瑞泉寺はすぐそばです。

  今回の大河ではあっさりとしか描かれなかった池田屋事件ですが、その舞台となった池田屋は長州藩御用達の宿でした。先日、NHKの「歴史探偵」では45分間、じっくり池田屋事件について検証をしていました。池田屋に向かった新選組隊士は10名、中へ突入したのは局長近藤、沖田、永倉、藤堂の4名(他5名は表・裏口を固め、1名は副長土方に連絡)。新選組がこの事件で勝利するためにはシミュレーションによると、池田屋の中で隊士と対峙した尊攘派は、11名だった可能性が高いとのことでした。近藤は故郷へ送った書状に、相手は20数名だったと書き残していますが。

  英一は平岡に要請されて、薩摩藩士折田要蔵の砲台築城塾に入塾して、潜入捜査を行っていました。スパイ渋沢ですね。英一が行った先は大坂土佐堀通りの宿、折田が滞在していた宿、松屋だったとか。ただ、英一は土佐堀通りとしか書いてくれずで、この通りは大川(旧淀川)の南沿岸ぞいに、天満橋付近から肥後橋過ぎ辺りまで、結構距離があります。道沿いに宿屋も多くありました。  英一は、折田は砲台築城の師としてはもう一つで、上司平岡に、一橋家で折田を抱える必要はないと断言していました。ドラマでは大坂の折田塾に西郷が現れますが、「雨夜譚」にはまだ、登場しません。後に、西郷と交渉することもあったようで、英一は大久保とは合わなかったものの、西郷とは気が合ったようです。かつて、西郷は橋本左内とともに、一橋擁立に奔走し、そのため、安政の大獄では島流しになったぐらいですから、一橋家、特に慶喜擁立の推薦書の原文を書いた平岡のことはよく知っていたのでしょう。英一とは平岡の話で盛り上がったかもしれません。

 旗本の息子だった平岡円四郎は優秀で、一橋家に仕官してから、家老並にまで立身するのは、何よりも慶喜に信頼されていたからでしょう。しかし、元治元年6月16日、町奉行所与力長屋を出たところで襲撃されました。紀行では、襲われたのは西町奉行所近辺としていました。池田屋事件のすぐ後、11日後の出来事でした。平岡は潜伏浪士探索のため、町奉行所の与力たちと会談でもしていたのでしょうか。  ドラマの中で、慶喜は「周りの人は自分に光を見るけれど、自分はそうではなく、凡庸である」と自らのことを評していました。こう自分のことを言える慶喜は真に賢い人なのだと思いました。それだけに、そんな慶喜を支え続けたかったであろう平岡の死は哀しいです。堤さんには、見事な暗殺場面を見せていただきました。素晴らしい平岡像を演じていただいた堤真一さんに感謝です。史実とはいえ、もう少し、堤円四郎を見たかったのは筆者だけではないでしょう。

 京都三条大橋です。欄干には、池田屋事件で付けられたかもの、刀傷があります。

  三条大橋を少し、西へ歩くと、高瀬川に架かる小橋があります。さて、茶屋はこの小橋のどちら側だったのでしょうねぇ。

  こちらは三条小橋のたもと、西側の池田屋跡です。茶屋はここから何メートル・・というより、徒歩数十歩ほどの所にあったでしょう。近くには龍馬が定宿にしていた木材商の酢屋もあるのですが、今回の大河には龍馬が登場しないのかな。勝海舟も登場しませんね。明治8年に京へやってきた新島襄が宿泊したのも、この辺りでした。

 大阪の土佐堀通り、天満橋近辺です。豊臣期の京街道は伏見から大坂城京橋口間でしたが、江戸期には、京街道は東海道の西の端になり、京橋口から土佐堀通りを西へ延長し、高麗橋が東海道の終着点になりました。

   写真は土佐堀通りに面した京屋忠兵衛跡です。文久3年4月以来、新選組の定宿でした。

 江戸期、土佐堀通りを西へ歩き、栴檀木橋(せんだんきばし)の南詰から三休橋筋を南下し、淡路町3丁目交差点の南西角に専稱寺がありました。この寺を文久3年3月1日から、勝海舟が大坂の定宿にしていました。同日、坂本龍馬と新宮馬之助が訪ねてきたと、勝は日記に記しています。同年9月頃に神戸に移るまで、勝は当所で海軍塾を開きました。大河ドラマ「龍馬伝」で、この寺で操船の座学や訓練が行われていたのをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。

 神戸海軍操練所の完成後、勝も本拠を神戸に移しますが、大坂に来た際には、旅宿を専稱寺に定めていました。慶応元年7月、大坂に居た勝を訪ねて、長州征討軍参謀の西郷が訪れてきました。明治初期には五代友厚が、当寺で大阪商法会議所開設に向けての会議を開きました。専稱寺は明治中期に移転し、神戸の方へ移りましたが、寺には勝の旅宿であったという寺伝があります。 跡地は現在、ビルが建っています。隣のビルに、勝海舟の寓居・海軍塾跡(専稱寺跡)を示す銘板を貼らせていただきましたが、ビル建て替えのため、銘板が外されていました。もう廃棄されるのかと心配していましたところ、何と、新ビルの完成とともに、その銘板が石碑となって、再設置されていました。ひたすら、ビルの関係者の皆様に感謝です。この銘板、本来は当地に石碑建立をしたかったのですが、かなわず、縦長の銘板設置になりました。今回、石碑に仕上げていただいて、本当にありがたいことです。

 専稱寺跡から西へ歩くと、御堂筋に出ます。御堂筋を南下すると、北御堂があります。この北御堂の1階にミュージアムができました。ここに、勝と龍馬の記事が展示されています。幕末期、北御堂に宿泊していた孝明帝の勅使、姉小路公知のもとに、勝に命じられた龍馬が本を届けに来たとあります。写真付きの記事で、大阪の真ん中についに龍馬の写真が展示されるようになってきました。当ミュージアム発行の史跡巡り地図には、専稱寺跡の案内も掲載されています。こうやって、場所の記憶が、次世代に受け継がれていくのだと思いました。

   慶喜に関する北御堂の対応が展示されていました。大政奉還後、大坂城に来た慶喜に、とりあえず、カステラを送っておこうとなったとか。この頃からカステラは贈答品だったのか、と思った次第です。

 右側の写真は、空襲で炎上する前の北御堂です。

  

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