安政7年3月3日午前8時、江戸城中から太皷の音が響き渡った。この日は雛祭り。多くの大名が祝賀のため行列をなして桜田門をくぐった。
桜田門から西へ550m程離れた彦根藩邸上屋敷の門が開き、大老井伊直弼の行列総勢60名が屋敷から出て来た。そして行列は緩やかな三宅坂を下り、江戸城桜田門へと向かったのである。
この日は明け方からの雪模様で、まわりの景色は一面真っ白だった。内堀通り沿いを進み、桜田門外の杵築藩邸江戸屋敷の前に差し掛かり、そこで待ち受けていた薩摩藩1名を含む水戸浪士17名の襲撃を受けたのである。
杵築藩邸の表長屋から事件の一部始終を目撃し、国許に伝えた杵築藩士の手紙には、大老の首が掲げられる様子など、生々しい描写が綴られていて、「言語に絶し候」、「御長屋の窓より見候者、落涙致し候」と書かれ衝撃の様子が読み取れる。いわゆる「桜田門外の変」である。
皇居 桜田門
この事件については、このマガジンの過去の記事にも取り上げており、そちらを見て頂ければと思うので、ここでの詳細は割愛させていただく事とする。
参照記事:「いざ桜田門」
参照記事:「幕末人物終焉の地(井伊直弼1~6)
皇居全体地図
地図は左側が皇居北、右が皇居南である。
国会議事堂をまっすぐ進むと皇居桜田門がある。その桜田門から皇居西に濠に沿った湾曲の緩やかな坂道が三宅坂である。
三宅坂は片側4車線の広々とした道路で、まわりの景観も良く、気持ちよく走れる坂道である。坂の地下には首都高が走っていて、ちょうど井伊直弼の彦根藩邸があったあたりの地下に三宅坂ジャンクションがある。
地図は現在の地図であるが、三宅坂界隈には多くの大名屋敷が並んでいた。そして現在は国を動かす重要な場所として各庁舎が存在している。
三宅土佐守 田原藩(三河国)上屋敷の跡地は「最高裁判所」
井伊掃部頭 彦根藩(井伊直弼)上屋敷の跡地は「憲政記念館」
松平市正 大分杵築藩上屋敷の跡地、そして戸田淡路守 美濃大垣新田藩上屋敷跡地には「警視庁」
松平安芸守 広島藩(浅野家)上屋敷跡地には「総務省」「国土交通省」
が建っている。
地図には載っていないが、松平伯耆守 丹後宮津藩上屋敷は「財務省」
内藤能登守 日向延岡藩上屋敷は「文部科学省」
上杉弾正大弼 米沢藩上杉家上屋敷は「法務省」「検察庁」と、日本の官庁が軒を並べているのである。
田原藩の江戸藩邸(上屋敷)は隼町の江戸城内堀沿いに城を望む場所に立地していた。また、藩邸跡地前にある内堀通りの坂で、坂に面して建っている最高裁判所や、かつて坂に面して立地していた陸軍参謀本部、日本社会党・社会民主党の通称でもある三宅坂は田原藩主である三宅家に由来するものである。
三宅坂は、内堀通りを半蔵門外から警視庁の辺りまで下る緩やかな坂で、坂に沿っている桜田濠は景勝の地として知られている。最高裁判所のところに三河田原藩主三宅家の上屋敷があったことから三宅坂と呼ばれた。別名は「皀莢坂(さいかちざか)、または「橿木坂(かしのきざか)」とも言われ、堀端に皀莢の木や橿の木が多く茂っていたため呼ばれたようだ。明治維新後、藩邸の敷地は東京第一衛戍病院、陸軍航空本部庁舎、在日米軍住宅パレスハイツを経て、現在は国立劇場そして最高裁判所となっている。
そしてこの坂に沿っては、三宅家のほかにも近江国彦根藩・井伊家上屋敷の広大な敷地(現憲政記念館・国会前庭等)もあった。井伊彦根藩邸の門前には、旅人の喉を潤したと云われる「桜の井」と言われる井戸があった。現在は憲政記念館に入ってすぐのところに移設されている。
明治5年の頃の桜の井
明治には三宅家・井伊家の屋敷の用地は政府の手に移り、陸軍の中枢が三宅坂に沿って置かれた。坂道から一段高い台地になっている井伊家屋敷跡は参謀本部庁舎に転用され、戦前・戦中には「三宅坂」と言えば参謀本部の代名詞だった。なお、1941年(昭和16年)12月8日から15日にかけて、陸軍省、参謀本部、教育総監部、陸軍航空本部、陸軍航空総監部が、三宅坂一帯から市ヶ谷台の陸軍士官学校跡地に移転した。
戦後、参謀本部跡地は国会用地に転用、最終的に東半分は公園化されて国会前庭と憲政記念館に、西半分は国会の観光バス駐車場などになり、一角には国有地を借地して1964年(昭和39年)に社会文化会館(日本社会党本部)が建設された。三宅坂界隈は戦前と戦後で様相を一変させ、「三宅坂」は戦前の参謀本部から新たに国会の議席の多数を占めるようになった日本社会党、そして現在の社会民主党を指す通称として使われるようにもなった。しかし東日本大震災後は、耐震性が疑問視され、2013年春に解体。党本部は、近くのビルに移転した。跡地には「警視庁永田町庁舎」が建てられた。
余談であるが、桜田門外の変の十三年後、明治六年(1873年)二月七日、明治政府太政官布告で「復讐ヲ嚴禁ス(仇討禁止令)」が発布され、仇討は禁止された。
桜田門外の変とその仇討禁止令という史実をもとにしたフィクション映画「柘榴坂の仇討」がある。浅田次郎の短編小説を映画化したものである。
柘榴坂の仇討ち
彦根藩士・志村金吾は、時の大老・井伊直弼に仕えていたが、雪の降る桜田門外で水戸浪士たちに襲われ、眼の前で主君を失ってしまう。両親は自害し、妻セツ(広末涼子)は酌婦に身をやつすも、金吾は切腹も許されず、仇を追い続ける。時は移り、彦根藩も既に無い13年後の明治六年、ついに金吾は最後の仇・佐橋十兵衛を探し出す。しかし皮肉にもその日、新政府は「仇討禁止令」を布告していた。「直吉」と名を変えた十兵衛が引く人力車は、金吾を乗せ柘榴坂に向かう。
そして運命の二人は13年の時を超え、ついに刀を交えるといったストーリーである。
東海道から高輪台へと登る長い「柘榴坂」は実際に存在する坂。
現在は真っすぐな坂になっているが、当時は途中クランクになっていて、映画では忠実に描かれていて、そのクランクになっている場所で仇討ちの刀を交えたのである。
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
読者コメント