【二人の円谷】
ゴジラやウルトラマンの生みの親で「特撮の神様」と称される円谷英二監督(1901〈明治34〉~1970〈昭和45〉年)と、1964年の東京五輪男子マラソン競技銅メダリストの円谷幸吉選手(1940~1970年)の偉業を紹介するテレビ番組「二人の円谷を知る~福島・須賀川市めぐり~」が、BS-TBSの「JNNふるさと紀行」と福島県のローカルテレビ局のテレビユー福島で放送されました。「二人の円谷」は、共に福島県須賀川市の出身。
【「二人の円谷を知る~福島・須賀川市めぐり~」のテレビ番組の様子】
【円谷幸吉選手が獲得した東京オリンピックマラソンの銅メダル】
【特撮の神様・円谷英二監督の初代ゴジラ】
【初代のゴジラには耳がありました】
【ウルトラマン】
【ウルトラセブン】
円谷英二監督は、怪獣映画『ゴジラ』という空前の大ヒット作を生み出し、日本ばかりではなく、海外にも評判が響き渡り、その名を知られることになりました。一時は、円谷監督が新作の特撮映画を作るという情報だけで、お話や登場人物のこともよく知らないまま、映画の興行権を買い付けに来る海外の会社もあったと言われるぐらいです。 円谷英二監督を語る時、「特撮の神様」という言葉によく出会います。円谷監督の作る特撮はミニチュアを巧みに操る職人たちの技量の高さ、セット美術考証の徹底的な精密さなどを主体としながら、考え抜かれた特撮技術を映像にふんだんに盛り込み、空想の世界の出来事をまるで実際に体感しているかのような臨場感で描く、実にエンターテインメント性に溢れるものでした。映画を見ている人を楽しませたい、驚かせたい。そのために特撮というテクニックを最大限に利用する。特撮で成立させた世界の細部までコントロールして観ている者を楽しませる。それが円谷監督の本分でした。技術とエンターテインメント性の見事な両立こそが、円谷監督を「特撮の神様」たらしめた所以と言えるのではないでしょうか。ウルトラQ場面写さらに円谷監督は、映画に代わり、人々の娯楽として定着し始めていたテレビという新しいメディアに注目。映画で培ってきた技術で、今度はテレビを観ている人たちを釘づけにしてみたいという思いを抱き、映像制作会社を創設しました。それが「円谷特技プロダクション」、現在の「円谷プロダクション」です。 映画館のスクリーンの大きさとか迫力には敵わないけれど、テレビ番組には飽きられたらすぐにチャンネルを変えられ、見向きもされなくなってしまうというシビアな側面があることを円谷監督はよく知っており、テレビ向けの特撮作品を作っても、決して妥協した作りを許さず、 少しでも視聴者が興味を失ってしまうようなクオリティの低さが感じられたら、撮影や編集のやり直しなどを命じるなど、厳しい監修の目を光らせていました。 こうして作られた第1回製作作品の『ウルトラQ』が評判となり、日本中に"怪獣旋風"を巻き起こしました。シリーズ化を狙い、怪獣と巨大ヒーローが戦うという斬新なコンセプトを持ち込んだ 『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』も大ヒットを記録。
私も子供の頃、「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」にはすっごく夢中になって観ておりました。今でも大好きです。
【円谷幸吉選手(1964年の東京オリンピック)】
円谷幸吉選手は、1940年、福島県須賀川町(現在の須賀川市)で農家の七番目の子、六男として生まれた。厳格な父親のもとで育った生真面目な末っ子が、兄の影響を受けて長距離を走り始めたのは高校生の時だ。が、本人も周囲も、将来つかむことになる栄冠のことなど、毛ほども想像しなかったに違いない。確かに持久力は持ち合わせていた。とはいえスピードはなく、地元でもさほど抜きん出た力を示していたわけではない。県大会、東北大会で健闘してインターハイに出場できたのは、ひたすら生真面目に練習を積み重ねたたまものだったと言えるだろう。そのインターハイでは5000mで予選落ちに終わっている。この時点でも、何年もたたないうちに日本のトップの一角に上りつめるとは、それにとどまらず、オリンピックに出場して活躍するようになるなどとは、周囲の誰一人として思わなかったはずだ。 だが、円谷はじわじわ、じわじわと力をつけていく。高校を出て陸上自衛隊に入り、勤務のかたわら郡山自衛隊陸上部をつくって走り続けていた時も、まだ全国的に注目される存在ではなかった。日本選手権の5000mで入賞したり、青森―東京間を走る青東駅伝で活躍したりはしたものの、将来のトップ選手候補と目されていたとはいえない。それでも、岩に爪を立てて這い上っていくように、わずかなりとも前進していく歩みを止めないのが円谷幸吉というランナーだった。 その円谷の急上昇は二つの出来事がもたらした。ひとつは、自衛隊で陸上のコーチをしていた畠野洋夫との出会い。もうひとつは、1962年に自衛隊体育学校に入校して、オリンピックを目指す特別課程の選手となったことだ。 それまでは、練習といってもひたすら走り込むだけだった。持病の腰痛もあった。強い信頼関係で結ばれた畠野のもとで、ようやくバランスのとれた専門的なトレーニングを始めたのである。すると、ひたむきな走り込みで培われたスタミナに加えてトラック選手としてのスピードも身につき、走力は驚くほど上がった。その年、早くも日本選手権で5000m、10000mの2種目で優勝する。長く我流の練習で蓄えてきた分厚い底力は、一気に花開くためのきっかけをいまかいまかと待っていたというわけだ。 ここからのレベルアップは早かった。1963年になると成長はさらに加速する。ニュージーランド遠征などの新たな経験を積むたびに飛躍し、5000mで立て続けに日本新をマークするなどして、トラック長距離の頂点へと躍り出たのである。こうして翌1964年の東京オリンピック代表の座を確実にしたところで、彼はさらに大きな飛躍を遂げる。オリンピックの年を迎えると、トラックでのスピードを買われてマラソンにも進出し、選考会の好成績でマラソンの代表をも射止めてしまったのだ。 円谷が10000mとマラソンの日本代表に決まってから、体育学校の同僚として練習パートナーを務めた宮路道雄氏は、練習で円谷を引っ張りながら、その急成長ぶりを強く実感していたという。「ああ、ずいぶん力がついたなあ、と。(前を走っていても)伝わってくるんです。いまにもスッと追い越されそうな感じなんですね」 ペースメーカーを追い越してしまいそうな勢い。それを育んだのはこんな姿勢だったと宮路氏は指摘する。 「彼は後ろからついていくのは好きじゃなかった。レースでは、自分から積極的にいって引っ張るんですね。それで力がついたと思います」 後ろについて最後だけ前に出ようとするのではなく、最初から積極的に自分の力をぶつけていく。後続の目標になるのもいとわず、先頭に立ってぐいぐいと引っ張っていく。その真っすぐな姿勢もまた、急上昇の原動力だったということだ。 円谷による1964年東京大会陸上競技唯一の日の丸掲揚 円谷による1964年東京大会陸上競技唯一の日の丸掲揚 迎えた1964年10月の東京オリンピック。円谷の活躍はあらためて記すまでもないだろう。まず10000mでは積極的なレース運びで6位入賞を果たした。当時の世界とのレベル差からして、これは快挙と評して差支えない成績だった。
そして陸上最終日、10月21日のマラソンで円谷選手は歴史に名を刻みました。世界の強豪に伍しての銅メダルは、日本マラソン史上初めてのメダルであり、また、この大会での日本陸上陣唯一のメダルでもありました。日本国中からかつてない喝采が寄せられたのは、この若者が勝利のため、国のために自らの力の限りを出し尽くしたのを誰もが見てとったからだ。 まったくの無名から、ひたむきな努力と、生真面目で真っすぐな姿勢によって少しずつ、また少しずつ力をつけ、ついには頂点の一角まで到達した、その足どり。それは「時代」とぴったり歩調が合っていた。高度成長によって戦後の復興をなし遂げ、オリンピックを開くまでになった日本。そのころ人々は、その上昇はずっと続くのだと信じ、真面目に、ひたむきに努力しさえすれば必ず報われるとも信じて疑わなかった。円谷幸吉は、まさしく時代を象徴する存在だったのである。だからこそ、誰もが彼に熱烈な喝采を送ったのだ。 しかし――。国を挙げての喝采の裏側には等量の重圧があった。ヒーローとなった円谷にはすぐさま、次のメキシコオリンピックでは金メダルを取ってほしいという期待がかけられるようになった。それが取り返しのつかない悲劇を呼んだのは、メキシコ大会を翌年に控えた1967年のことである。 東京大会の後、円谷にはさまざまな心労が襲いかかった。腰痛で調子を崩し、思うように走れない毎日。レースでも結果を出せない。畠野コーチの転任により、信頼する指導者とも離れ離れになった。私生活では、進んでいた結婚話が破談になってしまった。結婚の件もコーチの件も、体育学校の新たな上層部が干渉したためと指摘されている。追いつめられた円谷は、自分の四方すべてが閉ざされたように感じたに違いない。「絶対に弱音を吐かない。決めたことはやり通す」とは、練習パートナーであり親しい友でもあった宮路氏の円谷評だ。自分に厳しく、責任感は人一倍で、そのかたわら、周囲に気を配るのも忘れない性格だった。多くの期待にこたえられなくなり、私生活でも希望を失った彼は行き場を失い、自死を選んだ。体育学校宿舎の自室で、かみそりで頸動脈を切って亡くなっているのが発見されたのは1967年1月9日である。両親や兄弟、親戚にあてた遺書には、それぞれへの感謝の言葉だけが連ねられていた。「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の言葉に絶望の深さがにじんでいる。日本のスポーツ史の中で最も悲しい出来事。それもまた、時代の空気を映し出すものだったかもしれない。1964年東京大会の銅メダルをかけた円谷。生真面目な性格が表情から見てとれます。高度成長によって世界に日本の復活を示したいと、国を挙げて願っていた時代だった。そうした中では、何についても「国のため」「国を代表して」の意識が依然として強かったように思う。スポーツの世界でも、個人の思いより国の代表としての意識を優先しなければならないとする風潮が少なからずあったのではないか。 一方、高度成長時代は、上昇や前進のみが評価され、挫折や回り道はただの失敗としかみなされなかった。そこで多くの人々は、ヒーローにさらなる成功を求めた。それがどれほど困難なことかは考えもせず、ただ無邪気な残酷さで次の勝利を要求した。それを一概に非難することはできない。そういう時代だったのである。人一倍生真面目で責任感の強い自衛隊員は、不運にもそんな時代に、あまりにも対照的な栄光と挫折を味わわなければならなかったのだ。ひたむきな努力が思わぬ高みに人間を押し上げる可能性を持っていることを、円谷幸吉の生涯は教えてくれている。と同時に、時代の空気や社会の意識が思いがけないところで思いがけない悲劇を呼ぶことも示している。それは、スポーツとは、オリンピックとはどうあるべきものなのかという問いまでをも、いまも我々に突きつけている。
私は、円谷英二監督も円谷幸吉選手も、福島県が産んだ大スターであることはいうまでもなく、誇りに思っておりました。今回のテレビ番組を観て、輝かしい円谷英二監督の功績は素晴らしいと再認識しました。一方、円谷幸吉選手も日本でマラソン史上初めての銅メダルを獲得したスーパーヒーローだと確信しておりましたが、その後の円谷選手の様々な苦悩は、全く知りませんでした。円谷幸吉選手は、オリンピックの重圧に負けたのではなく、人生の大切な事を犠牲にしなければならなかったことへの失望で自ら命を絶ったことを強く訴えたいと思います。
我ら戊辰戦争研究会の関根会長は、須賀川市出身で、円谷英二監督の実家は関根会長の実家のすぐ近くだそうです。円谷幸吉選手とはなんとなんと記念マラソンで一緒に走った思い出があるそうです。二人の円谷に縁が深いそうです。
そして、本年7月7日に福島県須賀川市は、ウルトラマンやゴジラの生みの親で「特撮の神様」と称される円谷英二監督と、1964年東京五輪マラソン銅メダリストの円谷幸吉選手に名誉市民章を贈りました。須賀川市の「二人の円谷」顕彰事業の一環。7日は円谷監督の120周年の誕生日で「特撮の日」に当たります。さらに円谷選手が五輪で付けたゼッケンの番号「77」にちなみました。授与式は市民交流センターtette(テッテ)で行われました。橋本克也市長が式辞を述べ、円谷監督のいとこの子・円谷誠さん(61)、円谷選手の兄の喜久造さん(89)に名誉市民章と称号記を手渡しました。円谷誠さんは「古里の若者が(円谷監督の)理想に共鳴し、地域づくりが一層進むことを願う」とあいさつ。円谷喜久造さんは「笑顔で手を振る57年前の姿を思い出す。天国で喜んでいるだろう」と円谷選手を偲びました。
『二人の円谷』は、須賀川市の誇りであり、福島県の誇りであり、まさに、『日本の宝』だと思います。『二人の円谷』、永遠なれ!
【記者 鹿目 哲生】
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