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ザ・戊辰研マガジン

2021年08月号 vol.46

青天を衝け 17・18・19回 いろいろ感想

2021年07月28日 16:58 by katsukaisyu
2021年07月28日 16:58 by katsukaisyu

 一橋家勘定頭  一橋家の中で居場所を探していた渋沢(篤太夫)英一が、いよいよ本領を発揮してきました。今回の大河ドラマのテーマは剣や政治ではなく、経世済民です。英一は歩兵募集で西国の一橋家領内を歩き訪ねるうちに、一橋家の懐をうるおすための方策を思いつきました。英一が若いころから培ってきた、いかに金を稼ぐか、経済をうまく回すかということが始まってきました。そこは渋沢栄一ですからね、その手腕を見せていただきましょう。

 一橋家の領地が西国各地にあったとのことですが、一つ筆者が知っているのは、京都から西宮までの西国街道筋の郡山宿(大阪府茨木市)本陣での話です。ここは、江戸期から現在まで、ご当主が在住されていて、時折、特別公開されています。こちらで、ご当主に伺ったのですが、郡山宿周辺は一橋家の領地でした。江戸期の当主は庄屋職を務められていたそうで、明治期になって、お役御免になった時、一橋家から葵の紋付きの盃を贈られたとのことで、見せていただきました。

 筆者はその時、大阪府の中に突然、一橋家?と思っていたのですが、西国各地に一橋家の領地があったということを知ったという次第です。江戸期、文久三年の大坂の古地図に、現在の西区(川口)にあたる箇所に一橋家の蔵屋敷があったことが明記されています。大坂でも米や物産を売買していたことでしょう。山城国(京都)から摂津国(大阪)を通って、播磨国(兵庫)まで行く西国街道沿いなので、英一も郡山宿に来たことがあったかもしれません。ドラマで、英一は駕籠に乗って移動していました。いつのまにか、大出世です。  一橋家の領地で作った綿布の価値をあげようと、英一が奮闘していました。これは、一橋家作製綿布のブランディング化ですね。紙幣(藩札)を発行するという話も描いていました。物産の対価を紙幣で支払い、それを一橋家の出張所に持っていけば、実際の銀貨と変えてくれるというわけです。銀銭、銅銭を持って歩くのは重い!確かに英一が岡部の代官所に御用金を差し出すとき、大量の銅銭を数えていました。500両でしたっけ、1両約5万円とすると、2500万円分の銅銭です。それは重かったと思います。経済を回すには、紙幣が適しているのは間違いないですが、それって、銀行機能ですよね。英一はこの後、ヨーロッパに行き、近代貨幣制度の仕組みを学びました。明治6年、官を辞した英一は、日本初の私立の会社、株式会社第一銀行(現、みずほ銀行)を創立しました。今回のエピの8年後のことです。

   さて、今回、朝廷との交渉に疲れた家茂が、辞任すると慶喜に書状を書いて宣言し、大坂城でそれを受けた慶喜が、騎乗、京へ駆けつけるという場面が描かれていました。京街道をしばしばご案内している筆者にとっては、京街道をドラマ化してくれるのは初めてで、感慨深いものがありました。大坂城と二条城を最速で結ぶのが、秀吉が造らせた京街道です。現在なら、京阪電鉄の路線に当たります。ちなみに、100年前に京阪電鉄を作ったのは渋沢栄一です。このころすでに、淀川の西側を走る国鉄と阪急があったので、何故、淀川の東側にも鉄道を敷設するのかと、国の認可をもらうのは困難を極めたそうですが、英一ががんばってくれました。おかげで淀川左岸(東)側の住民は大助かりです。

 家茂と慶喜、二人で上方に居るときは、一方に何かあった時はもう一方が指揮を執れるように、京都と大坂で住み分けていたことが多いです。暗殺が横行している時代です。家茂の書状を受けて、慶喜が駆けつけて、辞任を思いとどまらせていましたが、21歳の家茂には酷な状況です。本来なら、紀州藩の若様に生まれて、何不自由ない生活が保障されているのにねぇ、将軍になったおかげで、国をその背に背負うことになりました。この後、慶喜に将軍の順番が回ってきますが、慶喜が拒否しまくるというのもさもありなんです。  第17回で禁門の変が描かれていました。英一は歩兵募集のため、関東に出張中で、幸か不幸か、池田屋事件も禁門の変にも参戦していませんでしたので、ドラマではあっさり目の変でした。いくつか、現在の御苑近辺の史跡を紹介しましょう。

   この門が蛤御門です。禁裏御所の入り口の真西にあたり、ここが破られると、敵兵に禁裏の中に突入されてしまいます。蛤御門が大激戦の地になったのは、会津藩が守っていたからで、来嶋又兵衛ら長州軍が押し寄せました。門は銃弾付きで、今も使われています。江戸期には南側を向いていましたので、明治期に西向きに再設置されたようです。

  ここは凝華洞(ぎょうがどう)跡です。禁裏のすぐ南にあった屋敷跡で、禁門の変時に会津藩の本陣になり、松平容保が入りました。

   御苑の東側、清浄華院(じょうじょうけいん)です。こちらの塔頭の一つに、京都守護職松平容保が本陣を置きました。会津藩の本陣は、平時は黒谷の金戒光明寺ですが、緊急時には孝明帝に呼ばれて、御所のすぐ近くの当寺に来ていました。病気がちだった容保は、早く黒谷に帰りたかったようです。

   金戒光明寺です。山門に会津藩本陣の木札が掲げられたのは、大河ドラマ「八重の桜」の頃でした。寺は残念ながら、燃えてしまいましたが、昭和の初めに再建されました。設計図が残されていて、江戸期と造りは同じとのことです。時折、公開していることがあるので、本堂の中に入ることができます。黒谷の境内で壬生浪士たちが、御前試合で剣の技を披露したことがありました。

   境内に、広い墓地があります。こちらは兵学者の赤松小三郎の墓です。赤松は上田藩出身で、薩摩藩の兵学教官に採用されますが、後に中村半次郎に暗殺されました。

 

   境内にある会津藩墓地です。幕末期、遠く会津から京へ動員されて、非業の最期を遂げられた方々です。結構な数の墓石が並んでいます。池田屋事件の後、新選組に動員されて土佐藩士を誤って傷つけたことから、自刃にいたった柴司の墓もあります。

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