神楽坂は徳川家康の江戸入府前から、町が形成されていたといわれる。 江戸時代になると、坂沿いは武家地や寺町となり、寺の縁日から賑わいの地、さらに繁華街・花街へと発展した。
名前の由来は諸説入り乱れているが、まず連想するのが神楽、つまり神様の前で演奏する祭礼。この辺りにある市ヶ谷八幡、穴八幡、若宮八幡等の社に関わる神楽から得られたものとされている。江戸の始め頃には、揚場坂と呼ばれており、その急な坂道を神輿が登れなかった時に、神楽を奉納すると神輿が軽くなった、それゆえに神楽坂になったとのそれらしい話もある。
神楽坂通りは、17世紀前半の江戸時代、三代将軍家光の時代に牛込御門と酒井家下屋敷を結ぶ形で開通した。元々この地域には以前から町屋が存在していたが、江戸幕府開府以降、一帯には幕府旗本の武家屋敷や寺社が多く配置されて行った。また、江戸城外堀が掘削され、神楽河岸が造成されたが、この物流拠点の存在が、後の神楽坂の発展に大きく寄与することとなるのである。
江戸時代後半になると、江戸は様々な文化が発展した。八代将軍吉宗の政治顧問であった荻生徂徠や、戯作者として江戸町民から喝采を浴びた太田南畝は、牛込地区の住人。18世紀末に毘沙門天善国寺が麹町から神楽坂に移転してくると、寅の日の縁日で大いに賑わい、行元寺や赤城神社では岡場所が発達し、幕末には地蔵坂の牛込藁店の寄席は多くの人を集める人気の場所となったのである。
江戸時代の神楽坂の浮世絵
大政奉還を迎え江戸時代が終わると、多くの武士が帰郷し江戸の人口は半減した。武家屋敷中心だった神楽坂一帯も空家が目立つようになり、一時には桑茶畑までが出現するようになった。しかし東京遷都が決まると、徐々に官庁の役人や企業の社員等の新住民が増加し始め、また行元寺の岡場所から発展した花街が形成されて行った。神楽坂の商店街もこの頃から急速に発達し、東京で最初の夜店も始まり多くの人で賑わうようになったのである。
それと同時に、尾崎紅葉、夏目漱石、坪内逍遥といった近代文学の祖と言われる文人たちがこの地に住むようになると、寄席演芸場や門前町の賑わいも加わり、神楽坂は文化の香りも漂う街になって行くのである。明治28年には飯田町駅が開通し、甲武鉄道の始発駅となるなど、山の手と下町との結節点として神楽坂の街は一層発展して行った。
善国寺毘沙門堂縁日
明治の終わりに行元寺が品川に移転し、その跡地が三業地(料亭、芸者置屋、待合の三つの営業を持った地帯)となって、神楽坂の花街は大正の初めには既に東京でも有数の規模になっていた。大正12年の関東大震災で東京下町が甚大な被害を受けたのに対して、台地の神楽坂は大きな被害が無かったため、震災後は銀座の有名店が軒並み神楽坂に出店することとなり、一時期「山の手随一の繁華街」「山の手銀座」と言われるまでに繁栄したのである。花街も東京で最大規模となり、複数の常設の寄席演芸場も開かれ、神楽坂はこの数年間が最も賑わいを見せた時代であった。
しかしその後は新宿や渋谷といったターミナル駅の発展により東京の中心地が西に移動すると、神楽坂の地位は少しずつ低下して行った。それでも独特の情緒を持った落ち着きある街として魅力を放っていた神楽坂であるが、太平洋戦争末期の昭和20年の空襲により、江戸時代以来の街並みは遂に灰燼に帰してしまったのである。
戦後、神楽坂の花柳界はいち早く復興し、昭和30年代にはピークを迎えたのだが、その後は時代の流れもあり少しずつ減少して行くこととなる。バブル経済の時代に一部無秩序な開発が進み、以前の「神楽坂らしさ」が失われていくことに危機感も醸成されてきたことから、現在では独特の江戸の風情を残す様々な取り組みが行われている。多くのおしゃれなレストランが集まっているスポットとしても知られており、今や「神楽坂」ブランドは全国区のものとなって行くのである。
大正時代の神楽坂2丁目
現在の神楽坂2丁目
「神楽坂」は古典芸能や花柳界の文化、老舗の伝統に江戸のまちの面影、さらに新たな現代的魅力を持ち合わせる粋なお江戸の坂の町である。
2024年春季号 vol.5
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