〈会津藩「海防警備」に当たる〉 〈浦賀・能満寺〉(横須賀市鴨居2-24-1)
徳川幕府は「鎖国」政策を取り、外国船の日本への入港は長崎に「出島」を造り、そこへの入航しか認めていなかったが、十八世紀の末頃になると、外国船がしきりに日本へ来航するようになり、蝦夷地等々日本の沿岸に姿を現わす事が度々起きるようになり、幕府は文化五年(1808年)八月、イギリスの軍艦フェートン号が不法に長崎港に侵入し、幕府が唯一認可していた「オランダ」の商船員を捕らえ、食糧・薪水などを得て退去する事件も発生し、「海防策」が急務であることを感じ「江戸湾」の防備を諸藩に命じたのである。 -◇- 文化七年(1810年)二月、幕府は「会津藩」に相模(浦賀周辺)の警備を命じてきたのである。
会津藩は「観音崎」と「三崎」に「陣屋」を造築し多勢の藩士を派遣して沿岸の警備に当たった。莫大な費用がかかるため、幕府は会津藩封地の「河沼郡」と「越後蒲宗郡」の三万石に替えて相模国三浦・鎌倉五郡の三万石を与えた。その後、十年(1813年)に幕府と「ロシア」との間に「和議」が成立し、警備体制が縮小され、文政三年(1820年)相模沿岸は「幕府・浦賀奉行」の管轄となり、十年間におよんだ警備の任務を会津藩は解かれたのである。 -◇- 代筆 minnycat
〈能満寺の本堂〉 小高い丘陵地に建つ
異国船来航と江戸湾防備
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