近江屋事件
あくまで武力で慶喜を倒すと主張する吉之助と、徳川も入れて、新体制を作ろうという龍馬が決別しました。龍馬が差し出すカステラを受け取ろうとはしない吉之助です。少年時代に斉彬からはカステラをもらったのにね。主君に命じられて、ひたすら慶喜を将軍へと推進した吉之助ですが、もはや、今回のドラマでは相容れないのでしょう。実際は、吉之助は慶喜に会ったこともなく、従って、いろいろないきさつも無く、大政奉還で平和裏に政権が朝廷に移るなら、それもよしと思っていたと思いますが。戦さをして、勝てる保証はどこにもないですし。我々は鳥羽伏見の結果を知っていますが、彼らは薄氷を踏む思いだったと思います。
龍馬を主役の一人にした小説と、龍馬を殺害した一人と目される京都見廻組肝煎(組長クラス)桂早之助の評伝、「剣隼記」(「『朝敵』と呼ばれようとも」現代書館刊に収録)と、両方描いた筆者です。「西郷どん」での近江屋事件をずっと楽しみにしていましたが、なかなか迫力のあるドラマを展開していただきました。大河ドラマの醍醐味です。ただ、誰が龍馬を、なぜ龍馬は殺されなければならなかったのか・・のところは、明瞭ではありませんでしたね。作者の見解を見たかったです。
「良誠会(りょうせいかい)事件簿」を書く際に、龍馬の語り口の土佐弁に苦労しました。何しろ、大阪弁ネイティヴなものでして。土方・沖田には標準語で語ってもらって、龍馬にはやはり、土佐弁が最適だろうと思い、取り組んではみたものの、これでいいものかと不安でした。幸い、高知在住の友人に土佐弁の監修をしていただくことになり、本当に助かりました。友人には感謝、感謝です。今回のドラマで、小栗旬さんが語る土佐弁、なま「~ぜよ」を聞いたときは、久しぶりに鳥肌が立ちました。今年は明治150年様様でしたが、これでしばらくは龍馬をドラマで見れないのでしょうねぇ。
吉之助がどんどん、鬼の形相になってきました。それを心配しながらみつめる、弟信吾です。西郷信吾従道は、明治以後、東京に残り、大久保と共に行動するようになりますが、それへの布石でしょうか。
従来の大河では、主役はなるたけ争いを避けたいけれど、やらざるを得ず・・で、鬼の役はナンバー2が引き受けていたもので、筆者は大久保がそれを担うのだろうと予測していたのですが、吉之助が自分で鬼になっていました。西郷のイメチェンを狙っているようです。
「討幕の密勅」と呼ばれる一枚の紙ですが、つい先日まで大阪歴史博物館での「西郷どん」展で、本物が展示されていました。本文中には「討幕」というよりは、慶喜追討に言及している密勅です。「密勅」と呼ばれるのは、正式な手続きを取った形式ではなく、うさんくさい勅命書というわけですが、薩摩藩から出兵をうながすには、紙一枚あればよかったのでしょう。
文久3年の8.18の政変と、慶応3年12月の王政復古の大号令という2つの幕末の軍事クーデターの両方に関わり、成功させたのは薩摩藩です。これが可能だったのは、琉球王国との密貿易から上がる利益と、天保期に大坂での莫大な藩の借財を250年割賦でチャラにして、借金が無かったことが大きな理由です。つまり、この藩には武器を大量に買うだけの金がありました。
もう一つが、武士がこの藩だけは他藩に比べて、大量にいたことだと思われます。関ヶ原以来、各藩は武士のリストラを進め、兵力を大幅に減らせスリム化を図りますが、薩摩藩は九州全土を支配しようとしていた勢いそのままに、薩摩だけになっても平時は農業、事あらば武士として兵力になるという体制を残しました。普通、藩の武士階級は人口の1割程度でしたが、薩摩藩は3割はいたとか。幕末、事あらばがついにやってきたんですねぇ。おかげで、幕末の2度のクーデター、鳥羽伏見の戦いを初めとする戊申戦争には大いに彼らが役に立ちました。ただ、維新が終わり、平時になると、その大兵力はいらなくなります。そこに薩摩の悲劇が・・は、12月ごろの話です。
二条城近くにある武信稲荷です。神社に伝わる龍馬とお龍の楽しい話が残されています。
おみくじや、絵馬があります。龍馬の絵馬は京都ではここぐらいでしょう。
近江屋事件の遭難碑です。本来はこの石碑の向かって左側の建物が近江屋跡です。昭和初期に、石碑は旧井口家ではなく、北隣の水口道具店の前に建立されました。 隣の近江屋跡は現在、喫茶店になっていますので、中へ入ることが可能です。
ぜひ、2階のテラスに席を取ってください。うまく、タイミングが合わないと難しいですが。もし、だめだったら、2階のトイレにさりげなく行ってみてください。龍馬は2階の河原町通側で襲われたと伝わります。
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