青森県下北半島の津軽海峡に面した風間浦村の「下風呂温泉」に宿泊した、風間浦村は「下風呂村」と「易国間村」と「蛇浦村」が合併してできた人口1,800人の村で、それぞれの村の名前から一字ずつ選んで「風間浦村」となった。ここ下風呂温泉を選んだわけは9年前に星亮一先生と戊辰戦争研究会のメンバーと宿泊した温泉で、今回の旅行に同行した女房には「温泉に行くぞー」といった手前それらしき温泉に宿泊しなくちゃいけませんし、私が以前にこのような場所に来たということを説明しなくちゃいけません。私の日ごろの行いの正統性を女房に納得させる意味もある。
そういう言い訳もあるが、この下風呂温泉には戊辰戦争に関わる他の意味があった。ここ下風呂温泉は明治期の教育者で京都の同志社大学の創始者である新島襄に関わる大切な場所でもある。
京都の同志社英学校(のちの同志社大学)の創始者である新島襄は、元治元年(1864年3月)に洋式帆船「快風丸」に乗船して、江戸から箱館に向かう途中に強い北風と津軽海峡の激しい潮流に遭遇し箱館を目指してゆくことが困難になったために船は下風呂港に寄港した。
新島襄の手記「箱館紀行」では本土最後の寄港地と書かれており、「下風呂温泉」を万病に効く心地よい温泉」とほめたたえるほどに長旅の疲れを癒すのに下風呂の硫黄泉は心から満足のいくもので、大事を胸に秘めた新島襄にとっては心に残る思い出になったようだ。
下風呂温泉、海峡いさり火公園「二見岩」
写真は下風呂温泉「いさり火公園」内にある「二見岩」である、下風呂漁港の一部を埋め立てられた池の中の「二見岩」は恵比寿神社が祀られている。また井上靖の文学碑や新島襄の寄港記念碑がある。恵比寿神社は海上安定と大漁祈願を祀る恵比寿様が鎮座している、伊勢の二見岩と並んで下風呂漁港の二見岩は地元の人に神秘性を奏で地元の守り神として大切にされている。
同志社創立者、新島襄先生「寄港地」の碑
元治元年4月18日に品川から箱館への航海中に津軽海峡の風と激しい潮流を避けるために下風呂港に寄港した、約2日間滞在したがそのことを公開中の日記「箱館紀行」に記したために下風呂温泉が伝えられた。
新島襄はその後に無事に箱館からアメリカに密航し、アメリカの神学校に留学し帰国後は京都にて山本覚馬と協力して同志社大学の前身である同志社英学校を創った。1890年(明治23年)に大学設立中に倒れ47歳の生涯を全うした、その後は妻の新島八重に託された。
以上の由縁を取り上げて記念碑を建立したのは、地元の同志社校友会青森県支部の方々だった。この記念碑は平成4年に海峡いさり火公園内に建立された。
写真こそはその碑の全容である。
現在では下風呂の地元の風間浦中学の生徒が同志社中学に体験入学したり、同志社大学の海外からの留学生が現地を訪れたりと、その熱い交流は現在も続いている。
下風呂温泉「さが旅館」の玄関口
写真は今回、私ら夫婦が宿泊した「さが旅館」である、ここは私が9年前に戊辰戦争研究会のメンバーと宿泊した旅館でもある。9年ぶりの再訪である。
ここ「さが旅館」は同志社大学との所縁のある人たちが宿泊する旅館でもあるが、新島襄とは直接には関係がない、というのもその時代には「さが旅館」は開業しておらず、実際に新島襄が下風呂温泉に避難したのは「さが材木店」であり、おなじ「さが」ということから「さが旅館」がその任に当たっているという(さが旅館の女将さんからの聞き取り)。ちなみにさが材木店は現存しており、街中を歩くと材木店の看板が見られる。おそらく青森ヒバを扱っているのだろう。
共同浴場「大湯」
「さが旅館」の隣に建つ共同浴場の「大湯」である。町民以外の入浴者は350円であった。
船舶で使うグラスファイバー製の湯舟があり、硫黄泉の熱めのかけ流しの温泉であった。湯が熱いので湯舟に入っている人は少なく、湯舟のへりに腰かけて世間話に夢中な人が多かった。
地元の人と観光客は一目でわかるものだ、肌が白く弱弱しいのが観光客で、肌黒くがっしりした人が地元の、かつ漁業関係者であろう。しかし皆が人懐こくて長時間に共同浴場に入っていても違和感は感じない。心地よい空間であった。
下風呂温泉と聞いて勘違いするのが、水上勉原作の映画「飢餓海峡」であろう、しかしその舞台は同じ下北半島でも「湯野川温泉」であり、下風呂ではない。
ここ「下風呂温泉」に女房を連れてきて、「温泉に行くぞー」と言ったことが実現し、萎びた風情のある青森県下北半島の温泉地で入浴出来て、亭主としての私の面目が大いに立ったようだ。
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