会津藩では女性が活躍したことは皆さんもご存じかと思います。戊辰戦争後も、会津の再建に活躍した女性たちの中から「ハンサムウーマン・ベスト5」を選出しました。
第一位 新島 八重
【大河ドラマ「八重の桜」の八重役綾瀬はるかさんの鶴ヶ城銃撃戦のシーン】
【新島八重の銅像(會津鶴ヶ城三の丸)】
言わずと知れた大河ドラマ「八重の桜」の主人公の新島八重。 嘉永6(1853)年、黒船の来航により事実上の開国に追い込まれ、幕府の権力が徐々に失われつつあった江戸末期。そこからさかのぼること8年前の弘化2(1845)年、新島八重は会津藩の砲術師範であった山本権八(ごんぱち)・佐久夫妻の子として、現在の会津若松市に生を受けます。幼少期から非常に活発で、男まさりな性格だった八重。裁縫よりも家芸の砲術に興味を示し、特に実兄の覚馬(かくま)からは洋式砲術の操作法を学びました。 慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いでの敗北を機に、薩摩藩・長州藩らを中核とする新政府軍から『逆賊』として扱われた会津藩。新政府軍の攻撃は、日を追うごとに激しさを増していきます。戦火は会津各地そして鶴ヶ城にも広がり、籠城戦になった際には、八重は髪を断ち、男装。スペンサー銃を持って銃撃戦に参加します。のちに『幕末のジャンヌ・ダルク』とも呼ばれるようになったゆえんは、こんな姿からきているのかもしれません。 会津藩の敗戦から3年後の明治4(1871)年、26歳の八重は、京都府顧問となっていた覚馬を頼って京都へ。そこで『鉄砲』に別れを告げ、『知識』という新たな生きがいを得ます。同じ頃、覚馬の元に出入りしていた、新島襄(同志社創立者)と出会い、明治8(1875)年10月に婚約。封建的な風潮の残る中、男女の平等を望む八重は、西洋帰りの夫を『ジョー』と呼び捨てにしました。また夫よりも先に車に乗る姿を人々に『悪妻』と罵られても、八重はまるで気にしませんでした。夫の襄はそんな彼女の生きざまを『ハンサムウーマン』と称しました。
第二位 中野 竹子
【大河ドラマ「八重の桜」の中野竹子役の黒木メイサさんの薙刀で奮闘するシーン】
【中野竹子の銅像】
娘子軍として戦った会津女子. 江戸詰勘定役中野平内の長女として江戸に生れ、幼いころから薙刀と学問に優れていました。 戊辰戦争がおこると会津へ帰り、会津坂下町で児童に読み書きや薙刀などを教えていました。 新政府軍が城下に迫ると、女性だけで結成された「娘子隊」として奮戦。中野竹子は薙刀の名手として、慶応四(1868)年八月二十五日夕方、娘子軍含む一隊は、現在の福島県松岡市神指町大字黒川にかかる柳橋(涙橋)にて新政府軍と遭遇、のちに「柳橋(涙橋)の戦い」と呼ばれる戦闘になり、はじめ新政府軍は、相手側に女性が交ざっていることに気づくと、彼女たちを生け捕りにしようとしました。しかし生け捕りを恥とする、娘子軍の渾身の太刀を受け、慌てて銃を構えたという逸話が残されております。しばらく両軍は銃撃戦を繰り広げるが、埒のあかない様子に、ついに衝鋒隊は新政府軍に斬りこんでいった。中野竹子も、何人かの兵を薙刀で斬り殺して善戦しましたが、一発の銃弾が彼女の額を穿りました。頭を撃たれ(胸を撃たれたという説もある)、重傷を負った竹子は、けれどまだ息があったという。そのわずかに残った意識で、竹子は自身の首を取られないように、当時まだ十六歳と年若い妹に己の介錯を頼みました。
第三位 瓜生 岩子
戊辰戦争で戦火が若松城下におよんでいた頃、凄惨な戦いが起こっていたとき、敵味方の区別なく負傷者を救護する女性がいました。今日の日本社会福祉の礎を築いたといわれる瓜生岩子です。 岩子は文政12(1829)年、現在の喜多方市で油商を営む若狭屋に生まれました。何人もの使用人を使う大変裕福な家庭で、何不自由ない恵まれた環境の中で育ちました。しかし、9歳で父親が急死。さらに、火災で家も焼けてしまうなど不幸がつづきます。そのため岩子は、母と弟と一緒に母親の実家である熱塩村の温泉旅館・山形屋で少女時代を過しました。14歳になると、岩子は叔母が嫁いでいた若松の会津藩御番医師の山内春瓏の家に行儀見習いにいきます。後にここでの経験が活動の原点になったといわれています。17歳で結婚、4人の子供にも恵まれましたが、叔父、夫、実母と最愛の人を次々に失い生きる気力をなくしてしまいます。そんな岩子を諭し励ましたのが、母の菩提寺である示現寺の住職です。「お前の情けのすべてをかけて不幸な人に捧げなさい。他人の喜びを自分の喜びとしなさい」。この言葉で目覚めた岩子はそれ以後、貧しい人たちや孤児など、苦しんでいる人たちのために人生を捧げます。戊辰戦争では、周囲の人々が反対するのにもかかわらず若松に駆けつけ、敵味方の区別なく手当てをしました。この献身的な活動は、新政府軍の大将・板垣退助を感動させるほどでした。八重が晩年、篤志看護婦として日清・日露戦争の救護活動に参加し社会活動に尽くしたのも、同じ会津地方出身の岩子の影響があったといわれています。戊辰戦争後は、喜多方に「小田付幼学校」を建て士族の子女の教育に尽力。43歳の時には、東京で窮民救済の方法を学んだ後、喜多方に裁縫教授所を設立。地域の娘に裁縫や機織りを教えて困っている人の面倒をみます。またこの頃、福島県知事の勧めで福島市での活動も始めています。明治19(1886)年の磐梯山噴火の際には救援活動を行い、明治24(1891)年の濃尾大地震、明治29(1896)年の明治三陸大津波の際にも、岩子は東奔西走、各地でバザーを開催してその収益と募金を、被災者の救済に充てました。また63歳の時には、日本資本主義の父といわれた渋沢栄一に要請され、彼が院長をしていた東京養育園で幼童世話係長として8ヵ月間働きました。その後も岩子は、人々のために働き続けます。会津若松、会津坂下に育児会、喜多方には産婆研究所をつくり、各地で講習会を開きました。野口英世の母・シカも、この講習会で産婆の免許を取ったといわれています。貧しくて医者にいけない人たちのための私立病院も建立し増した。日清戦争では、傷病兵救護のために水飴を贈るなどの活動もしています。これらの活動が認められ、明治29(1896)年、女性としては初めて藍綬褒章を受章。翌明治30(1897)年、69歳で亡くなりました。愛と慈悲に溢れ、人生のすべてを人のために捧げた岩子。生前のさまざまな活動が称えられ、死後7つもの銅像が県内外に建てられました。喜多方市にある「喜多方蔵の里」内には、岩子に関する資料を展示した「瓜生岩子記念館」があります。
第四位 海老名 リン
会津子女教育の母. 藩士日向新介の娘。家老海老名季昌に嫁ぎました。終戦後、夫は責任を問われ東京に送られ、リンは一族と斗南に移住しました。 明治5年、赦免され警視庁入りした季昌に従い上京した際、熱心なキリスト教の信者となる。社会活動家として 麻生に共立幼稚園を創設し保母の資格を取る。夫の帰国を機に、明治26年に会津若松市に初めて幼稚園(現在の若松第一幼稚園)を開設。さらに若松女学校(現在の葵高校)を創立させ、「会津子女教育の母」と呼ばれました。
第五位 大山 捨松
「鹿鳴館の花」と呼ばれた会津藩出身の女性。 家老職の家に生まれ、山川浩、健次郎の妹。慶應4(1868)年の戊辰戦争で、その生活は変わってしまいます。幼い身で籠城戦に参加した捨松は砲弾に飛びかかって火を消す仕事をしていましたが、これを手伝って大怪我をし、また兄・大蔵の妻であるとせは、この仕事が原因で命を落としています。戊辰戦争が終わると、家族で斗南藩へ移住。このときに捨松は函館の沢辺琢磨のもとに里子に出され、その縁でフランス人夫婦の下で生活するようになります。その経験からか西洋の文化に慣れ親しんでいた捨松は、11歳の時、岩倉使節団とともに渡米。女子を留学させるという文化は、当時では全く考えられないことで、このときに捨松の両親は「捨てるつもりで待つ」という意味を込めて、名を「捨松」と改名させました。しかしアメリカでの捨松は非常に優秀でした。英語を習得し、名門校であるヴァッサー大学に入学。そこでの成績も非常に優秀だった上、洗練された美しさと知性を持つ捨松は、大変人気者でした。 帰国した捨松は大山巌から結婚の申し込みを受けます。しかし相手は、会津戦争で砲兵隊長を務めた男です。当然家族は猛反対しましたが、巌の熱意に負け結婚。できたばかりの鹿鳴館で結婚式を挙げ、以降捨松は日本人としては垢抜けた性格とセンスの良さで、「鹿鳴館の花」と呼ばれました。それ以降は看護学校を作ったり、女子教育の充実を図ったりと、海外暮らしで得た知識と経験を発揮して、日本の女子教育や看護に貢献。日本の女性が社会に進出していくための基礎を作りました。
【記者 鹿目 哲生】
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