会津藩の神保修理を皆さんはご存知ですか?私は、当時の会津藩にとりまして、惜しい人材だったと心底悔やみます。
1986年12月30日・12月31日に日本テレビで放送された年末時代劇スペシャルの「白虎隊」で、神保修理役を演じたのが国広富之さんです。私はこのドラマで初めて神保修理を知りました。一番印象に残ったといっても過言でもありません。年末時代劇スペシャルの中で「白虎隊」は最大のヒットだったそうです。このドラマの主題歌の堀内孝雄さんの「愛しき日々」はまさに会津藩の悲哀を歌い上げています。
大河ドラマ「八重の桜」で神保修理役を演じたのが斎藤工さん。劇中、存在感あふれる役柄を演じておりました。
神保修理については、戊辰戦争研究会マガジンvol.6で、関根さんが詳細に紹介されております。
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神保修理は、会津藩家老・神保内蔵助の嫡男として1834年に生まれました。修理の幼名は、長輝。神保家は会津藩内でも名門で知られ、修理は幼い頃から容姿誠に閑雅で学問に優れ、藩校・日新館でも秀才で知られておりました。
1866年、会津藩で行われた藩政大改革で人材登用を企画し神保修理と佐川官兵衛の将来を嘱望し、修理に西洋文明を学ばせるために長崎に派遣して内外の大勢を視察させました。聡明な修理は長崎で進んだ西洋文明や日本国内の情勢を見て挙国一致して外国に当たらなければ日本は外国の植民地にされかねないとの結論となったそうです。 軍事奉行添役となった1863年、藩主・松平容保の京都守護職就任に随行して上洛して国事に奔走して伊藤博文や大隈重信ら西国諸藩の志士達と交流を深めたそうです。 会津藩主松平容保公は修理の才覚を重視し藩の重役に登用し、容保の側近くにあって国事に奔走しました。その中で修理は、有名な「白虎隊」につながる、世代別の軍隊編成の企画立案をしました。1867年、将軍・徳川慶喜が大政を奉還して大阪城へ退いた際、佐幕派の主戦論者は京都への出兵を主張しましたが、これに「非戦論」の勝海舟と神保修理が真っ向から反対し、それが原因で会津藩兵から臆病者と非難されました。「錦の御旗」を掲げた薩長軍に鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大阪城で再出兵の準備をしていたのですが神保修理は将軍・慶喜や藩主・容保に大坂で戦うことの不利を諭し新政府軍に絶対恭順を主張しました。会津藩士は鳥羽・伏見の戦いに負けたのは「西国諸藩に内通した」と曲解された神保修理の裏切りが原因だといって、修理は全藩の恨みを一身に買ってしまいました。藩主・容保はこのまま修理が会津へ帰れば殺気立った会津藩士たちになぶり殺しになりかねないと憂いて和田倉の上屋敷に「幽閉」する形で隔離しました。また勝海舟も修理の身を案じて慶喜に相談して幕命をもって修理を保護しようと動いていました。しかし、このことが会津藩士をますます激怒させる結果となり、藩主・容保に修理の処断を迫ることとなってしまいました。また、藩士たちは修理を三田の下屋敷に監禁して慶喜には修理は病気のため療養中との報告をしてしまいました。修理は藩主・容保に面会させてくれるように頼むがこれを拒否され主命と偽って切腹を命じてしまうのです。
慶応3年、神保修理は長崎にて坂本龍馬と出会いました。 龍馬は変名「高坂龍次郎」と名乗り、二人は意気投合しました。 おそらく神保修理は龍馬と分って対談したと思われます。 時勢論、新政府への考察、等々と縦横無尽に論じ、二人はお互いの佐幕派、倒幕派の立場を超え、青年らしく雄弁豁達に語らったそうです。 龍馬は大変満足し、頑迷固陋の多き会津人の中で、修理の開明的先見性とその人格に感嘆したそうです。竜馬は、長崎で対面した神保修理のことを、「長崎ニて会津の神保修理に面会。会津ニハおもいがけぬ人物ニてありたり。」という高い評価をしております。坂本龍馬は、幕府寄り側にもこういう開明的な者がいたのかとさぞ驚いたことでしょう。
また、長州藩の伊藤俊輔(のちの伊藤博文)は、神保修理と長崎で会って大きな印象を残していて、修理のことを尊敬していたそうです。この伊藤俊輔と神保修理の長崎でのエピソードは、『当時長州藩は第一次長州征伐のあとで勅勘(ちょっかん)を蒙っており、同藩士が藩外に旅行することは禁止されていた。修理が長崎に着いて間もないある日、某酒楼で宴会があり、それに出席してみると、たまたま臨席している一人の青年武士が目に入った。修理はその武士が長州藩の伊藤俊輔であると直感した。修理も伊藤もまだ互いに相手を識らない。修理が酒楼の仲居にたずねてみると、<林宇一>とかいう男だという。どうも伊藤は藩籍をごまかし、姓名を変えているらしい。そこで意を決した修理は、突然、傍にあった杯を伊藤にすすめ、大声で「伊藤俊輔君、書生はもっと磊々落々(らいらいらくらく)、おおらかに行こうではないか。変名して小さくなっているようなけちな真似はよしたまえ」と叫んだので、さすが剛腹の伊藤も茫然自失、二の句がつげなかった』ということである。
神保修理は、慶応4年(1868) 2月22日、偽りの君命であることを知りながら修理は自刃します。その前日、勝海舟に宛てて一編の詩を送り、自らの心境を吐露しております。
「一死もとより甘んず。しかれども向後奸邪を得て忠良志しを失わん。すなわち我国の再興は期し難し。君等力を国家に報ゆることに努めよ。真に吾れの願うところなり。生死君に報ず、何ぞ愁うるにたらん。人臣の節義は斃れてのち休む。遺言す、後世吾れを弔う者、 請う岳飛の罪あらざらんことをみよ」と。勝海舟もまた、神保修理の死を悲しみ貴重な逸材を失ったことを惜しんだそうです。自刃に臨む際の潔さと無念さが交錯しながらも、日本人の健全な公的貢献とは何かと感じさせてくれる、まさに現代人への遺言であると思います。
神保修理の辞世の句。
「帰りこん ときぞ母のまちしころ はかなきたより 聞くへかりけり」。享年34歳。
神保修理の墓は、東京都港区白金台の興禅寺
神保修理を知れば知るほど、会津にとりまして、神保修理を失ったことは、だれが見ても大きな痛手だったと思います。神保修理という人材こそが会津にとっての未来であったと思います。
【記者 鹿目 哲生】
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