リチャードソン殺害事件
横浜と言えば、生麦事件です。
旧生麦村の位置は、東海道沿い、横浜と品川の間に なります。数ある攘夷事件の中で、後世に最も影響を及ぼしたのが、このリチャード ソン殺害事件です。何しろ、賠償をめぐって実際に薩英戦争にまで進展しましたから ね。今は一人亡くなっても(ご本人にとっては不幸なことですが)、戦争まではいか ないでしょうけど。
生麦事件は文久2年(1862)8月21日、島津久光が卒兵上京後、江戸へ向かい、その 薩摩への帰国途上で起きました。横浜の居留地に滞在していた英国系の民間人4名(1 名は女性)リチャードソン、マーガレット、マーシャル、クラークが、川崎大師を見 物しようと、騎乗で東海道を横浜の居留地から江戸方面に向かっている途中、薩摩藩 の行列に遭遇しました。英国人たちは街道を2列で進んでいて、前から行列が来たの で、リチャードソンがよけようとして、マーガレットの乗った馬に接触し、溝に馬の 脚が入ってしまい、戻そうとして、行列の中に入り込んでしまったという状況です (「ドキュメント生麦事件」生麦事件参考館館長 淺海武夫氏著)。
今風に言えば、交通事故なのですが、何しろ相手が、攘夷に燃えていた薩摩藩です ので、ただではすまず、久光の供頭である奈良原喜左衛門が見とがめ、引き返せと合 図するも、何しろ相手は異国人でうまくは通じず、現場はますます混乱しました。奈 良原は「無礼者」とリチャードソンに斬りつけ、他の藩士たちも英国人たちに襲い掛 かり、負傷したリチャードソンらの乗った馬は横浜方面に引き返します。さすがに薩 摩の侍は女性は斬らず、マーガレットは帽子を吹っ飛ばされて、前髪を斬られて、ア メリカ領事館へ駆け込み、助けを求めました。その後、負傷したクラークとマーシャ ルは横浜に戻り、ヘボン医師の手当てを受け、明治まで存命します。ただ、重傷を負 い、落馬したリチャードソンは海江田武次がとどめを刺しました。この海江田、後に 奈良県知事、京都府知事になった方です。
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