紀尾井坂で思い浮かべるのは、まず、ホテルニューオータニ。千代田区紀尾井町にこのホテルニューオータニが建ち、その横を通る道が紀尾井坂である。
大名屋敷や旧伏見宮邸があった2万坪ほどの広大な敷地で、創業者の大谷氏が所有していた土地である。
先の東京オリンピックの2年前に大成建設の施工でホテル建設が着手され、そして1964年8月31日に落成し、翌9月1日に開業。
地上17階のホテルニューオータニの最上階には、ラウンジそのものが回転するスカイラウンジがあり、このホテルの名所となっている。現在は安全上の理由により回転を止めている。
このラウンジは、外から見ると山高帽や麦わら帽子に見えることから、映画「人間の証明」でも話題になった。「ストーハー」、殺害された外国人の最後に残した言葉で、独特な外国人の発音ではあるが、「ストローハット」麦わら帽子の意味を警察は突き止め、事件の解決に向かうといったストーリーであった。
ホテルニューオータニ
大名の江戸藩邸が多く建つこの紀尾井坂であるが、江戸時代は清水坂と呼ばれていた。その南側には紀州徳川家、北側には尾張徳川家、彦根藩井伊家の屋敷があり、この御三家があった坂道であることから、それぞれの一文字を取って「紀尾井坂」と呼ぶようになった。そして「清水坂」の名称は使われなくなり、「紀尾井坂」の名称が一般的になったのである。明治維新後、紀尾井町の町名もこの坂の名前を取って付けられたものである。
紀尾井坂
また、この紀尾井町といえば大久保利通が暗殺された場所としてよく知られる場所である。この紀尾井町事件は「紀尾井坂の変」とも言われ、1878年5月14日に内務卿大久保利通がこの紀尾井町で士族6名によって暗殺された事件である。実際の暗殺現場は紀尾井坂ではなく、紀尾井坂から少し南に行った清水谷という場所で、現在の参議院清水谷議員宿舎前である。
この事件の実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名で、主犯格の島田は加賀藩の足軽として第一次長州征伐、そして戊辰戦争にも参加している人物である。士族反乱が相次いだ時期、島田も金沢で挙兵計画に奔走するが失敗。さらに翌年の西南戦争でも挙兵計画に奔走するが、政府軍が熊本城に入城したことを知り、挙兵計画を中止した。そしてその後、島田らは高官暗殺に方針を変更したのだ。
島田らが大久保暗殺時に持っていた斬奸状はこうである。
「国会も憲法も開設せず、民権を抑圧し、法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いし、国を思う志士を排斥し内乱を引き起こした。外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。」
事件当日の午前8時頃、大久保は麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発。明治天皇に謁見するため、2頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かった。紀尾井町清水谷に差し掛かった時、島田ら6名が大久保の乗る馬車を襲撃。大久保は馬車から引きずり降ろされ殺害された。大久保は全身に16箇所の傷を受け、半分の傷は頭部であった。島田らは刀を捨て大久保に一礼をして撤収後、その日のうちに斬奸状を持って自首したのである。
大久保の遺体は青山霊園へ埋葬され、清水谷公園には『贈右大臣大久保利通哀悼碑』という大きな石碑が建てられている。殺害実行犯の6名は、その後裁判で死刑になっている。
大久保利通哀悼碑
大久保は生前の西郷から送られた手紙を入れた袋を持ち歩き、暗殺された時にも西郷からの手紙を2通懐に入れていた。事件後は大山巌が血染めになったその手紙を所持したとされている。そして大久保が暗殺時に乗っていた馬車は、岡山県倉敷市の五流尊瀧院に奉納し現存している。
大久保が乗っていた馬車
福島県郡山市の安積牛庭という場所に、安積疏水の恩恵を残した大久保利通の遺徳を永く伝えるために建立された大久保神社がある。安積公民館牛庭分館の敷地内にあり、敷地の横を流れる安積疎水の真上には、四国松山藩士族の入植者の碑が建っている。そして郡山の安積疎水の開拓には多くの九州人が多かったせいか、いまだに福島訛りに交じった九州弁が聞かれることがある。そしてこの安積の地に久留米という場所があるのは、九州の久留米と関係があるのかも知れない。
福島県郡山市にある大久保神社
話は大久保利通一色になってしまったが、この紀尾井坂ではもう一つの事件があった。大久保が暗殺される4年前のことである。
明治7年(1874年)1月14日に東京の赤坂喰違坂で起きた、右大臣岩倉具視に対する暗殺未遂事件。「赤坂喰違の変」「岩倉具視遭難事件」などとも言う。
赤坂見附や四谷見附はよく聞く名前だが、その間には喰違見附というところがある。見附とは人の出入りを見張る番所をいい、この喰違見附で事件が起きたので「喰違坂の変」とも言われ、紀尾井坂の坂上にこの喰違坂はある。
幕末の四谷見附
公務を終え、赤坂の仮皇居から退出して自宅へ帰る途中だった岩倉具視の馬車が、赤坂喰違坂にさしかかった時、岩倉は襲われた。襲撃者は高知県士族で、もと外務省に出仕していた武市熊吉ほか、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太の総勢9人。いずれも西郷や板垣に従って職を辞した元官僚・軍人であった。岩倉は襲撃者の攻撃により、眉の下と左腰に軽い負傷はしたものの、皇居の四ッ谷濠へ転落し、襲撃者達が岩倉の姿を見失ったため、一命を取り留めたという暗殺未遂事件であった。現場に残された武市熊吉の下駄が手がかりとなって、事件の3日後の1月17日に、武市熊吉ら9人は逮捕された。同年7月9日、司法省臨時裁判所に於いて、全員が斬罪の判決を受けて伝馬町牢屋敷にて処刑されている。
紀尾井町は東の皇居、西の赤坂御所に挟まれた場所にあり、明治を担う政治家の通り道であった。紀尾井町は大名屋敷があった場所であるが、紀州徳川家の中屋敷跡は現在のグランドプリンスホテル赤坂、尾張徳川家の屋敷跡は現在の上智大学、井伊家の屋敷跡は現在のホテルニューオータニと大きく変貌したが、政治に関わる場所として今もその姿は変わってはいない。
2024年春季号 vol.5
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