バックナンバー(もっと見る)

2024年春季号 vol.5

今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…

ザ・戊辰研マガジン

2021年06月号 vol.44

危機を乗り越えた「にぎり寿司」

2021年05月30日 11:25 by norippe
2021年05月30日 11:25 by norippe

 なんで握り寿司の1人前は10個なの?
 NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」での素朴な疑問であった。ボーっと生きてると、こんな質問にも答えられないわけで、チコちゃんは知っていた。



 江戸時代の屋台で生まれた握り寿司の文化は、日本における象徴的な食文化の一つとして発展した。
 戦前、昭和初期には東京の寿司店は3000軒を超えていていたのだが、戦後になるとこの状況が一変して絶滅の危機に。太平洋戦争が始まる昭和16年、寿司店の命とも言えるお米、魚が配給制になったのだ。そんな配給もどんどん減らされる一方で、寿司を握ろうにも握るものがないという先の見えない時代に突入。それでも寿司文化継承の為に作られていたのが「戦時ちらし」というメニューで、これは魚ナシで野菜を主体に使ったちらし寿司の事。こうして何とか生き永らえていた寿司店であったが、昭和19年半ばには閉める店がどんどん増える事になり、迎えた昭和20年の終戦。日本は多くの物を失ってお米や魚の配給は継続される中、寿司店にとって最後通告とも思える衝撃的な出来事が「飲食営業緊急措置令」であった。
 限られた食料を国民に配給する為に一部許可されたお店以外は日本中の飲食営業は原則禁止される事に。許可されたお店に寿司店は含まれておらず、日本からは寿司が消滅したのだ。
 この時寿司文化を守るべく立ち上がったのが銀座の寿司店店主の八木輝昌という人物である。寿司組合の中心人物にして寿司業界の為に労を惜しまなかった苦労人。組合員を集めて何とか打開策を打ち出せないかと議論を重ね、目を付けたのが国民に配給される1合の配給米の存在であった。
 家庭でお寿司は握れないので、あの米を使って我々が握るのはどうか?というアイデアをひねり出したのが「寿司の委託加工」お客さんが持参した配給米を握り寿司に加工してお客さんに返すという営業形態であれば飲食業では無く、加工業。寿司職人だけにイカしたアイデアだった。
 八木輝昌らは時の東京都知事・安井誠一郎に直談判に向かい、これで事態が動き出すかと思いきや、東京都の答えは「許可できない」という非情なものであった。東京都としては「米はOKでも魚がダメ」という理由からである。
 配給に影響が出ては困るので寿司屋に魚は都合できないという返答ったが、ここで八木輝昌らは「配給で規制されていないものがあるじゃないか!貝、海老、川魚、かんぴょう、しいたけ、それに卵。加工賃40円を貰えれば10種類のネタを用意できる!米1合を10個の握り寿司にします!」と交渉したのだ。
 40円で10種類握るのであれば多少儲けも期待できるので商売としては成り立ち、寿司店の生き残りもギリギリ望めるという展望であった。そしてこの粘り強い交渉が功を奏して東京都はOKを出すことになり、ここに寿司10個(貫)という数字が誕生したのである。
 昭和22年に「持参米鮨委託加工」という看板が出された寿司加工店が営業を開始すると、瞬く間にお客さんがやって来て寿司の絶滅は回避されたのである。そして戦後、日本が復興すると寿司店の数もどんどん増えていったが、1人前10個の目安はそのまま継続される事になったのである。
 現在はお店や値段によってお寿司の数が増減したり、1合よりも少なく握るケースもあるのだが、10個は配給米の基準から来たものだったというわけである。

 これを解説したのは明治元年創業の江戸前寿司店「早稲田八幡鮨」4代目店主の安井弘さんである。昭和・平成・令和とお寿司の歴史を見て来た郷土史家という一面も持つ安井さんは、きゅうりを巻いた「かっぱ巻き」を考案した方である。
 東京高田馬場にある「八幡鮨」は創業明治元年。今年で創業153年になる。店に立つ四代目は、戦後すぐから現在まで、現役の寿司職人である。
このカッパ巻き、広く食べられるようになったのは戦後GHQが寿司屋の営業再開を許可した以降である。それまでは巻物といえば、のり巻き(かんぴょう巻き)か鉄火巻きか奈良漬巻きあたりが一般的で、八幡鮨の三代目もそのまえも、それ以外のネタを巻いてみようという発想すらなかった。
 四代目は、その頃出回りだした室胡瓜(細くて小さい胡瓜)をみて「きゅうりを巻いたら美味しいんじゃないだろうか?」と思い、やってみると意外にイケた。寿司屋の研究会で四代目がきゅうり巻きを発表するとみな興味津々で、やれ胡麻を入れてみようだの、やれおかかを入れてみようだので、その会以降急速に広まりだしたのである。
 しかし、明治生まれの三代目はそれを見て、生のきゅうりを芯にするなんて邪道も甚だしいと嘆いた。日本ではもともと野菜を生で食べる習慣はなく、本来ならきゅうりと言えども板ずりして熱湯をかけてから食べるわけである。それをそのまま巻いてしまおうというのであるから、昔の人が眉をしかめるのは当然のことであった。
ところが、お客様にはすこぶる好評で、きゅうり巻きはじわじわと世に浸透していったのである。

 きゅうりを巻いた寿司が「かっぱ巻」と言われる由来は、キュウリの切り口が河童のお皿に似ているから、キュウリは河童の好物だから、キュウリ好きな河童が描かれた清水崑の漫画に由来する等、いろいろ説があるようだが、真相は分からない。
(参考文献:What an Interesting Worldより)

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)

2024年春季号 vol.5

今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…