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2021年06月号 vol.44

「青天を衝け」第11回、第12回、第13回:いろいろ感想

2021年05月24日 20:14 by katsukaisyu
2021年05月24日 20:14 by katsukaisyu

青天 11・12・13回  栄一、京へ  

13回で、もはやディーン・フジオカさん演じる五代才助(友厚)登場!まだ文久3年です。英一と五代が出会うのは慶応3年のパリ万博だろうと推測していたので、意外でした。五代の才助という名は、主君、斉彬がつけてくれて、本人も気に入っていたことから、明治5年頃まで、五代才助を名乗っていました。大坂に慶応4年1月、赴任してきた時の任命書を見たことがありますが、そちらも五代才助名でした。

 なぜ、薩摩島津家家中の五代が武州熊谷宿にいるのかということですが、映画「天外者」をご覧になった方は、五代が生麦事件の賠償問題から始まった薩英戦争で英軍の捕虜になり(船中でいろいろと活躍していましたが)、その後、横浜で釈放された後に、今度は島津家家中の同僚から狙われていたのをご記憶でしょう。薩摩隼人は捕虜になるとは、とんでもないということです。そこで、五代と同行した寺島宗則(後の外務卿)と共に、関東で潜伏していました。支援したのは福沢諭吉だったそうですよ。福沢は、当時はまだ珍しかったEnglish speakerの縁で、寺島と仲が良かったのだとか。この頃には、長年の蘭学重視から、本国の世界での地位が日本へも伝わってきて、英学の方へシフトチェンジが進んできたのでしょう。

 ちなみに、日本の鎖国を解いたアメリカは、南北戦争へと突入していきますので、文久・元治・慶応年間は日本から消えていきます。内戦ですったもんだで、外交どころの話ではなかったようです。マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」の背景です。1865年(慶応元年)に南北戦争が終わり、不用になった大量の銃器が日本へ入ってきて、リユースされて・・というのはまた、後の話です。

 ディーンさんへのインタビュー記事によりますと、大河の五代はワイルドなのだそうで、5年ぶりの五代さんが楽しみです。洋装の写真も載っていたので、明治以降も登場されるようです。

 さて、幕吏に追われている(?)英一と喜作が京へやってきました。早速、土方歳三ら新選組と遭遇。新選組の登場で、京の騒然とした雰囲気が一瞬で伝わりました。「青天を衝け」、動乱の京都編の始まりですね。慶応3年に、英一は土方と一緒に仕事をしているので、そのエピソードをやってくれるだろうと思います。武州石田村出身の土方と、武州血洗島出身でお互い豪農の息子で幕臣をやっている同士、気は合っただろうと思います。土方と五代は天保6年生まれで、英一は天保11年生まれです。

   筆者は文久2年発刊の「袖珍武鑑」という幕府の役人名簿を所持しているのですが、筆頭は老中水野です。そこに一橋家家中の面々の名前が載っています。一橋家は藩ではないのだと思った次第です。紀州徳川家や水戸徳川家、尾張徳川家なんていうのは、載っていません。それで、その一橋家家中に中根長十郎(ドラマの中で、「平岡」と言っている年長の方ですね)の名は載っていますが、いくら探しても、平岡円四郎の名が無い!と、思っていました。ドラマで、円四郎は文久2年に一橋家にはいず、文久3年に京都の慶喜のもとへ戻ってきたということが分かり、思ったやれやれと次第です。

   「鶴瓶のぶっつけ本番旅・深谷編」で、満島真之介さんが尾高長七郎の墓に参られていました。長七郎の墓の前で感無量な満島さんには、ぐっときました。長七郎の墓を英一が建てたのですねぇ。長七郎の後半生はなかなか厳しいものなので、親しかった長七郎への英一の思いが墓石から伝わってきました。  次回はいよいよ、第1回で登場した英一が主君、慶喜と出会う場面を見れますね。慶喜や円四郎が乗っている馬を追いかけて、必死で走る喜作・英一コンビの激走ぶりを楽しみにしています。

 写真は草津宿本陣です。大河の紀行では、和宮降嫁の際に、当所で昼食を取られたと紹介されていました。近年まで代々、所有者さんがおられましたが、今では草津市の資料館になっていますので、一般公開されています。

 和宮はご休憩でしたが、明治帝や浅野内匠頭、篤姫に慶喜も泊まられました。文久3年の上洛の折には、家茂も草津宿に泊まられていますが、もう1軒の方の本陣で、そちらは残念ながら普通の民家になっています。草津宿は中山道と東海道の合流地点で、本陣は現存最大の建物だとか。

 2019年に、この本陣で大発見がありました。現物が特別に公開されていた機会があり、見に行ったことがあります。写真が撮れなくて、お見せできないのが残念ですが、最近、テレビのまち歩き番組でもやっていましたので、ご覧になった方もいらっしゃるかと思います。

   はい、その現物とは「新選組の失念物、煙管入れ」です。時は慶応元年、江戸へ隊士募集に行った帰りです。本陣には宿帳が残されていて、新選組が草津宿に泊まったのは知っていました。

 この失念物を発見された学芸員さんにお話を伺ったのですが、本陣の土蔵内で史料を探しておられ、たんすの引き出しにこの忘れ物があったのだそうです。引っ張り出したら、札がついていて、この札は史料だと、話されていました。確かに、この札が大事なのですよねぇ。おかげで、この黒っぽい煙管入れの袋が、「第一の間の新選組の忘れ物」であったことが分かります(「新選組様 五月九日御泊 壱番間ニ御失念物」)。

 さて、問題はこの時期に、第一の間に泊まったのが、どなたかということです。宿帳に記された幹部の名は、土方・伊東・斎藤・藤堂です。そのほかは、30人ほどの新入りの隊士で、こちらはまず、第一の間は無理です。若い斎藤・藤堂組も多分、ないでしょう。となると、残るは土方か伊東です。さて、この時期に隊内の序列は、どっちが上でしょうかねぇ。

 本陣の風呂とトイレです。

 草津本陣近辺の町並みです。草津は京都からJR東海道線の新快速で2駅目です。本数も多いので、気軽に行けます。

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