奇才・清河八郎
年号が明治に変わった1868年、日本は内戦状態にあった。鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争である。
改元が発布された9月初め、東日本では奥羽越列藩同盟を結んだ諸藩と旧幕府の連合軍(幕軍)が、攻め寄せる新政府軍(官軍)に対抗していた。官軍が仇敵としたのは会津藩だが、それと並んで標的とされていたのが、現在の山形県鶴岡市を本拠とする庄内藩である。
幕末、会津藩は京都警護を受け持ち、庄内藩は江戸の警護を任じられていた。ともに反幕府的な考えや行動をとる人々の粛清を手掛けたことから、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府の軍閥により仇敵とされたのだ。
その庄内藩に、明治維新と深く関わった人物に清河八郎がいる。 清河八郎は、庄内で生まれ育ち、幕末に活躍した志士の一人。「維新の魁」と呼ばれる。江戸で私塾を開いて尊王撰夷を説き、浪士組を組織した。後にこの浪士組と快を分かつかたちで新選組が誕生する。
尊王撰夷は、天皇を君主とする国づくりと、外敵の打ち払いを合わせた考えを表す。維新の直前には、倒幕のスローガンにもなった。皮肉なことに、当時では最も先鋭的な考えを持つ人物の一人が、後に討幕軍と戦う庄内藩から生み出されたのである。
清河八郎は、明治維新も戊辰戦争も見ることはなかった。波乱の人生をたどるが、父には頻繁に手紙を書き、母を連れて旅をするなど、家族思いの人物でもあったようだ。
江戸遊学を夢見た少年
最上川の堤防から町へ入るところに、松尾芭蕉の銅像が立っている。案内板に「芭蕉上陸の地」とある。奥の細道を旅した芭蕉は最上川を船で下り、この村に来た。庄内藩清川村は、霊峰・出羽一・一山の羽里一山に参詣する人々を集めた川港だった。舟運の盛んな時代には、人山期間の約半年で3万人以上の参詣客が訪れたという。清河八郎は、この村で生まれた。生家は空き地になっているが、かつては庄内一の醸造量を誇った造り酒屋であった。
清河像
清河神社
清河神社の境内に清河八郎記念館があり、鳥居の横に清河八郎の座像がある。 この神社は昭和8年に、文武両道の神として清河八郎を肥り創建された。社の背後に広がる御殿林という松林は、戊辰戦争のとき、戦場になった場所でもある。
御殿林
清河の名は斎藤正明(幼名、元司)。後に江戸で私塾を開くときに名前を変えた。故郷の清川への思いからだろうか。「川」を「河」にしたのは、より大きな時代の流れ、変革を生む者になりたいという願いが込められている。
清河は天保元(1830)年生まれ。異国船の出没が頻繁になり、国情が騒がしくなってきたころだ。 「やんちゃだけれど、頭の切れる子」だったようだ。
跡取り息子の元司少年、家を継ぐものと思いきや、数え18で江戸遊学を志し、家を飛び出してしまう。前年、斎藤家に滞在した藤本鉄石に影響されたようだ。鉄石は、岡山藩を脱藩し、諸国を遊歴していた書画家で、後に尊王撰夷を唱える天株組の総裁となる人物だ。元司少年は、彼から江戸や京都のこと、当時の日本をめぐる国際情勢などの話を聞いただろう。胸を躍らせたに違いない。
江戸へ出た清河は、入門した東条一堂塾で塾頭に推挙されるほどの学才を見せ、剣術では千葉周作の道場に入門して腕を磨き、後に北辰一刀流の免許を受けるほどになった。
そして25歳の若さで清河塾を開く。学者として身を立てること、文武両道に優れた人材を育てることが、清河本来の志だったようだ。それが、幕末の騒然とした世情の中で変わっていった。
将軍とともに上洛した浪士組
記念館に展示されている書簡
清河は、多くの書簡を残している。故郷の父、治兵衛に宛てたものも多い。清河八郎記念館に、書簡の抜粋を年表風に整理した展示があった。
家永6(1853)年1月1日、イギリスがオランダを通じ八丈島を拝借したいと交渉してきた。その春「伊豆下田港に七・八隻の夷人船あり、品川の湾に台場を築く。
嘉永7年4月の書簡に、前年のペリー来航と、この年の開国を伝えたものがある。吉田松陰らが密航を企てたことも記されている。
水戸藩浪士が、大老の井伊直弼を暗殺した桜田門外の変は、ペリー来航の7年後、万延元(1860)年に起こった。幕府が朝廷の意に反して開国したことと、尊王派の大弾圧を行った安政の大獄が背景にある。
清河は、事件の1カ月前に虎尾の会を結成している。目的は尊王攘夷。欧米列強を追い払い、天皇中心の国をつくることだ。旗本で千葉道場同門の山岡鉄舟や、薩摩藩士も含む15名が発起した。会の名称は「虎の尾を踏む危険も恐れない」との覚悟を込めたもの。桜田門外の変は、彼らを奮い立たせた。
清河八郎が歴史の表舞台に立つのは、後の浪士組結成からといっていいだろう。虎尾の会は紆余曲折があって解散状態に陥るが、その人脈が大きな足掛かりとなっている。そのころ幕府内には、朝廷との融和策、公武合体を進める動きがあった。一方、朝廷は幕府に捜夷を強く迫っている。14代将軍の徳川家茂が、朝廷の再三の要請に抗しきれず上洛することを知った清河は、幕府に建白書を提出する。
「急務三策」と題したこの建白書は、接夷の断行に浪士を役立てること、その浪士の過去の罪を免除すること、文武に秀でた人材を登用することを提案したものだ。これに、幕府政事総裁職の松平春獄が飛びついた。明敏で知られた福井藩主である。すでに列強と国交を結んでいる幕府は、接夷を避けたい。しかし、朝廷の手前、何がしかの動きを見せなければならない。攘夷夷断行を宣言する「急務三策」、そして浪士組の結成は、渡りに船の提案だった。
幕府を後ろ盾とし、清河らが集めた浪士組は234名を数えた。その中には、後に新選組を組織する近藤勇、上方歳三らの姿もある。浪士組は、家茂上洛の警護を命じられた。文久3(1863)年のことである。
回天の浪士組、朝廷方につく
この時期が、短い清河の人生で絶頂期といえるだろう。ただ、彼の企てには別の目的があった。隊士たちは将軍を守り、幕府を助けるために集まった。しかし、清河らリーダーたちの本意は、尊王接夷にある。清河は、自らの志を「回天」と表した。それは天下の形勢を一変させること。倒幕の意図も含んでいる。
京都の壬生に駐屯すると、清河は隊上を前に、その本意を明らかにした。多くの隊上が唖然としたに違いない。幕府の支援で集めた隊士を、朝廷方につけるというのである。彼は、これを朝廷に上書し、攘夷決行の勅諚、すなわち天皇の命令を受けた。浪士組は、江戸での攘夷決行を命じられるが、その際に、芹沢鴨、近藤勇ら13名(諸説あり)が隊を離れる。彼らは京都守護職・松平容保(会津藩主)の配下となり、壬生浪士組と名乗る。後の新選組である。
一方、あわてふためいたのは幕府だ。浪士組が勝手に幕府を離れ、朝廷の軍隊になってしまったのだ。勅諚を賜ったのだから、手の下しようもない。彼らが画策したのは、清河の排除だった。勅諚を持つ清河を放置すれば、多くの志士が浪士組に参集するおそれがある。しかし、浪士組に彼の意図をきちんと理解している者はそう多くない。尊王も撰夷も実はどうでもよく、幕府に武士の 身分として取り立てられたいと応募した隊士が大半ではないか。首領を失えば結束は崩れる。おそらく幕府はそう踏んだのだろう。
江戸に戻った清河は、横浜の外国人居留地を襲撃し、焼き払う計画を立てた。勅諚に従った援夷である。決行を4月15日と決めた。その2日前だ。清河は麻布で、幕府の刺客・佐々木只三郎らに暗殺される。享年34の若さであった。
清河墓所
清河の命は、志なかばにして尽きた。だが、彼が回天により実現しようとした社会は、どのようなものだったのだろう。国を守り、天皇を中心とした社会をつくること。清河八郎が残した「済世安民」という一文に、その考えがうかがえる。まさに彼は「維新の魁」である。
後日談になるが、清河を失った浪士組は新徴組として再編され、庄内藩に預けられる。そして5年後の戊辰戦争で、新徴組はこの清川で新政府軍と戦う。清河が生きていれば、彼と浪士組は倒幕軍側にいたのかもしれないのだから、この戦いは奇妙なめぐり合わせだ。武士ではない一介の浪士が、天皇の勅諚を受けるなど、本来はあり得ない。動乱のさなかとはいえ、その機略を成したところが、奇才たる清河八郎の真骨頂といえるだろう。
参考文献:トランベール(奇才・清河八郎)
2024年春季号 vol.5
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