【徳川慶喜と渋沢栄一】
【徳川慶喜公伝】
大河ドラマ「青天を衝け」では、渋沢栄一と徳川慶喜の関係が多く描かれておりました。明治26年頃に渋沢栄一は、旧主・徳川慶喜の伝記編纂を企図しました。それは明治維新時における慶喜の真意を正しく後世に伝えたいという、栄一の熱い思いによるものでした。当初の編纂と執筆は福地源一郎に依頼しましたが、福地が多忙を極め、さらに病気のため一時中断。明治40年に歴史学者の三上参次、萩野由之らを監修者として編纂が再開し、大正7年に『徳川慶喜公伝』全8巻がようやく刊行されました。
『徳川慶喜公伝』における慶喜の言い分はこうなります。「私は朝廷には向かうつもりなんてなかったのです! それなのに朝敵認定されるなんて……嗚呼、こんなことならば家臣に刺されようと、命をかけてでも、会津藩と桑名藩を帰国させるべきだった、それならこんなことにならなかった! 私のいうことを聞かないから、『ならば勝手にしろ』と言わなければよかった!」 これには会津藩が激怒。 山川健次郎の『会津戊辰戦争史』で次のように反論されています。「異議あり、無責任にもほどがある! 人間としての真心があればこんなこと言えますか? 将軍でありながら家臣に『勝手にしろ』なんて言いますか? 国家不沈がかかっているのに『勝手にしろ』と言い放ったことが事実だとすれば、こんな無責任な話ってないと思いますが!」 いささか長くなりますが、山川健次郎の声を続けましょう。 「だいたい命令って? 会津と桑名に何を命令したんですか? その中身って何だったのか? 我々はむしろ、あなたの“命令”に従っただけだ!」 「要するに慶喜公はあのとき、断固戦うか、恭順するか、ハッキリしていなかったわけだ。 で、あとから会津と桑名に責任転嫁し始め、しょうもないことを言い始めたわけだ!」 かなり激昂して反論しています。 状況証拠からするに、会津側が正しいとみなされます。 そもそも、本物である【討薩の表】すら、却下されず曖昧なまま慶喜はいなくなってしまった。 却下されない命令に従って、会津は戦い続けたとも解釈できるのです。 会津の悲劇を彼ら自身にありとすることは、ないわけでありません。その筆頭は松平容保であり、すべては己自身にあると口を閉ざし、慰霊する明治を送りました。 そんな容保の態度をいいことに、渋沢栄一という財力を抱き込み、慶喜が言い訳を流布し始めた。 容保ほどおとなしくない会津藩士たちは激怒し、筆でもって反論する。そんな構図がそこにはあります。山川健次郎は、歳を偽ってまで白虎隊として会津戦争に従軍し、斗南藩で苦労を重ねました。そんな山川からすれば、将軍だろうと慶喜は許せるはずもなかったのです。
【山川 健次郎】
【『会津戊辰戦争史』】
私は、渋沢栄一を主人公の大河ドラマ「青天を衝け」が始まる前から、渋沢栄一と徳川慶喜の関係に興味津々でした。渋沢栄一役の吉沢亮と徳川慶喜役の草彅剛の名演により、二人の登場シーンは、ワクワクしながら見ておりました。
【吉沢亮と渋沢栄一】
【草彅剛と徳川慶喜】
ところで、徳川慶喜は、76歳で亡くなりましたが、徳川家将軍の15人の中で、一番の長生きした将軍でした。ちょっと皮肉な生涯だと思いませんか?それに、慶喜の実母は、有栖川家出身のれっきとした皇族。この事実も、賊軍になれない理由だったのかもしれません。また、徳川慶喜にはなんと10男11女の合計21人の子どもがおりました。正室との間に1人の女子をもうけましたが、この子は生後4日ほどで亡くなっているため、子どもはすべて側室が産んだ子です。慶喜の子どもは、新村信(しんむらのぶ)と中根幸(なかねさち)という2人の側室から生まれています。新村信は10人、中根幸は11人を生んでおり、子どもたちも含めてみな仲が良かったそうです。慶喜の精力もさることながら、これほど何度も出産をした側室2人がすごいです。また、驚くのは、なんとなんと会津藩主松平容保公の孫と1938(昭和13)年に、徳川慶喜の孫の德川慶光と結婚しております。松平和子は、会津松平家に生まれ、子爵松平保男(松平容保公の子)の四女。秩父宮妃勢津子の従姉妹であり、高松宮妃は、義妹にあたります。また、次女の夫は、もと国会議員の平沼赳夫さん。徳川慶喜と松平容保との関係で、孫の代で結婚していたのは本当に意外でした。歴史の皮肉というか、まさに数奇な運命と言わざるを得ません。
【徳川和子(松平容保公の孫)】
大河ドラマ「青天を衝け」の中で、「徳川慶喜公伝」の発刊についても美談として紹介されておりました。渋沢栄一が主人公ですので、しかたがありませんが、「徳川慶喜公伝」に対して、会津藩が激怒していたことは全く触れられませんでした。山川健次郎の指摘は、もっぱらごもっともで、こうした事実を一人でも多くの方々にわかってもらいたいものです。
【記者 鹿目 哲生】
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