【会津藩公用人 手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)】
2021年12月15日に放送されました「世界の何だコレミステリー」という番組で、日本史の史上最大級の謎である『坂本龍馬暗殺事件』が取り上げられ、坂本龍馬暗殺事件実行犯は誰なのか?そして、暗殺を指示した黒幕は誰なのか?いまだ多くの謎に包まれている。今回は、近年発見された密書から、黒幕の正体に迫っていくものでした。
慶応3年(1867年)11月15日の坂本竜馬暗殺に、彦根藩が関与していたことを示す密書が京都市内で見つかった。実行犯の兄が事件直後、同藩の重臣と会談しようとしたことが書かれている。彦根藩は当時、十五代将軍・徳川慶喜を大政奉還後の新政府の要職に就けようと奔走しており、専門家は「徳川外しの構想を持つ竜馬が邪魔だったのでは」と、彦根藩が暗殺の謀議にも加わった可能性を示唆している。京都で密書見つかり 京都市東山区の霊山歴史館が、約十五年前に市内の収集家から寄贈された史料を調べていて見つけました。密書は、事件翌日の16日付で、暗殺の実行犯とされる見廻組与頭、佐々木只三郎の兄で会津藩重臣の手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)が、彦根藩金奉行の石黒伝右衛門にあてたもの。手代木は、京都守護職となった会津藩主とともに入洛。京都の治安維持にあたる見廻組の<黒幕>として、佐々木に竜馬襲撃を命じたといわれております。内容は、「ごく内密に伺いたい(相談したい)事件があり、(石黒の)旅宿を訪ねたが出仕中で留守だった。ご苦労をかけて恐縮だが、万亭(京都・祇園)で待っているので来てほしい」というもので、文面から、手代木はこの密書を、京都の彦根藩邸に託したとみられる。藩主・井伊直弼を桜田門外の変で失い、勢力を弱めていた彦根藩は、徳川慶喜を新政府の要職につけることで復権を図ったといわれ、石黒はその中心にいた幕府側要人。密書からは、手代木が石黒に暗殺を報告し、急いで事後策を練ろうとしたことがうかがえる。木村幸比古・霊山歴史館学芸課長は「会津藩主にまで責任が及ぶのを恐れ、そのことを会談で協議したとも考えられる」と話している。見廻組の直接の上司は所司代のはずなんだけれど(当時の所司代は容保の実弟の桑名候だから容保に関係なしとはいえないけれど)、 会津藩公用人手代木が坂本暗殺指示?!
【手代木直右衛門の弟の佐々木只三郎】
【坂本龍馬像】
日露戦争中の1904年(明治37年)に、佐々木只三郎の実兄で、京都守護職の公用人として、朝廷、幕府、諸藩との連絡調整役にあたっていた会津藩の手代木直右衛門勝任(てしろぎ すぐえもん かつのり)が、亡くなった。その死の間際に、「坂本を殺したるは、実弟、只三郎なり。当時、坂本は、薩長の連合を謀り、また土佐の藩論を覆して倒幕に一致せしめたるをもって、深く幕府の嫌忌を買いたり、此時、只三郎が見廻組頭として在京せしが、『某諸侯の命』を受け、壮士二人を率い、蛸薬師なる坂本の隠れ家を襲い、これを惨殺したり」と、「龍馬暗殺」について重大な告白を遺している。では『某諸侯の命』とは、いったい誰の指令なのか?手代木は、後半に、こう言い残している。「けだし某諸侯とは、『所司代桑名候』を指したるなり。桑名候は、会津候の実弟なりを以って、これが累を及ぼすことをはばかり、終生このことを口にせざりしならん」と語った。手代木家私家版『手代木直右衛門伝』(1923年大正12年刊)によると、京都見廻組与頭・佐々木只三郎らに「龍馬暗殺」を指令した「某諸侯の命」とは、当時の京都所司代で、桑名藩主でもあった「松平定敬」(さだあき)であり、手代木が仕えていた京都守護職の「松平容保」の実弟である。そのことを裏付ける証拠に、暗殺団のメンバーだった「渡辺吉太郎」も、代々京都所司代の二条城御門番組見習に任じられ、御前試合で報奨金銀5枚を下賜されて、京都文武場の剣術指南となっている。 また「桂隼之助」は、代々京都所司代の二条城御門番役の同心であり、御前試合で20人抜きを達成して、報奨金銀5枚を下された凄腕の剣客である。しかも二人とも「西岡是心流」を修めて免許皆伝を得ている。「龍馬暗殺」を実行した「渡辺吉太郎」と「桂隼之助」の二人が、京都所司代の配下にいたことと、「世良敏郎」が、元桑名藩士であったことは、所司代の筆頭であった「松平定敬」が指令者であったことが十分に納得できるのである。 明治期の元京都所司代 松平定敬のそもそも京都所司代の職務は、京都の治安と取り締まりであり、京都の役人の総元締めの立場であって、朝廷や公家の監察と京都町奉行、伏見奉行、奈良奉行の管理・監視であったので、当然ながら、配下の伏見奉行が坂本龍馬を取り逃がした不始末の名誉挽回の機会を伺っていたことであろう。この京都所司代は、「龍馬暗殺」後のわずか24日後の12月9日に幕府崩壊とともに消滅するのであるが、「松平定敬」は、榎本武揚らとともに蝦夷地に逃れて箱館戦争に敗戦して、横浜で捕らえられて津藩の預かり身となった。 後に許されて容保の跡を継いで、約2年間、東照宮宮司となった。「松平定敬」が、明治時代を生き延びられたのは、手代木勝任が遺言したように、主君の会津候で、京都守護職であった「松平容保」に累が及ぶことを恐れて、その秘密が堅く守っていたからであろう。「松平定敬」は、1908年(明治41)まで生きて、61歳の生涯を閉じている。ということは幕末の京都所司代の頃は、まだ血気盛んな30歳代であったのだ。これらの事実により「龍馬暗殺」を実行したのは、京都見廻組の「佐々木只三郎」、「渡辺吉太郎〈篤〉」、「今井信郎」、「桂隼之助」、「世良敏郎」であり、それを指令したのは、京都所司代の「松平定敬」(さだあき)であった。これが長らく解けなかった「龍馬暗殺」の実行者と黒幕の謎であった。 なお「薩摩藩黒幕説」や「西郷隆盛黒幕説」があるが、これは全く真実ではない。 なぜならば最近見つかった手紙で、寺田屋事件を振り返って龍馬が、「うれしかったのは、京都の藩邸にいた西郷隆盛が、この事件の一報を聞き、短銃に弾を込めて、私を伏見まで助けに来ようとしてくれたこと」と書いているからである。 さらにその後の、龍馬とお竜を薩摩藩の塩浸温泉にかくまって、11日間の手の治療をさせていることの説明がつかないからである。 以上、「勝海舟の日記」、「今井信郎の証言」、「龍馬の霊言」、「中岡慎太郎の証言」、「渡辺篤の証言」、「手代木勝任の証言」などから「龍馬暗殺」の真相を割り出してみた。 京都にある霊山歴史博物館には、龍馬を暗殺したとされる「桂隼之助」の小太刀が展示されているので、ほぼ認定されているのであろうが、錆びているだけでなく、刃こぼれがしているのが気にかかるところである。 なぜならば「霊言」では、龍馬は一度も刀を抜いていないからである。DNA鑑定をして、本当に龍馬の血痕であるかどうか確かめなければならないだろう。「龍馬の霊言」では「もう向こうも死んどる(この〈死んどる〉を鳥羽・伏見の戦いで死んでいると解釈すれば、佐々木只三郎と桂隼之助であろう)から、あんまり言うつもりはないよ。油断したわしの方が悪いんだ」と、あっさり龍馬は言う。龍馬は、自分を暗殺した張本人の名前を明かさなかった。「運命的には仕事が終わった段階で襲われた…まあ、天に見放されたんじゃろな。『もう龍馬は役に立たんので、もういらんのう』と思われたんだろな。誰だ、これ決めたのは、ほんまにっー、許せんでなあ」と龍馬らしくユーモアたっぷりに語っていたのが印象的だった。龍馬自身が「龍馬暗殺」を語っているのであるから、これ以上の真実はないであろう。これが約百五十年間、迷宮入りの謎とされてきた「龍馬暗殺」の真相であったのかもしれません。
【記者 鹿目 哲生】
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