神風連の乱 ②
明治9年 熊本で起こった士族の反乱 『 神風連の乱 』 をテーマにして 主領となった『 太田黒 伴雄 』 を ご紹介したいと思います。
神風連の乱について詳しくお知りになりたい方は、 前回の 『 神風連の乱 ① 』 をご覧ください。
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しかし、 前回の紹介だけでは、 神風連の本質がつかみにくかったと 思われるので以下の文を 『 神風連資料館 』 から引用させて頂きたいと思います。
『神風連の志士の精神は師林桜園によって教えられた 敬神を第一義としている。
「世の中はただなにごともうちすてて神をいのるぞまことなりける」と桜園はいい、また「神事は本也、人事は末也」といったが、神風連の志士はその教えのままに敬神を第一とした。
神を敬うことは皇上を敬うことであった。それは皇上は神裔であり、厳然として現つ神であるという信念からである。
神風連が尊王というのは他の多くの志士に見る討幕の 反語としてのそれではなく、信念の上に確固とうちたてられた尊王であった。
攘夷もまた敬神の具体的な現れであった。 起きていのりし伏してぞ思ふ一筋は神ぞ知るらむわが国のため 太田黒伴雄 八百万神にぞいのる一筋は 世にこそかかれ身をば忘れて加屋霽堅
当然のことながらこのような神風連は、開国を国是としておしすすめた明治政府と鋭く対立した。
開国によって欧米の思想制度文物 が奔流のごとく流れこみ、古来の思想伝統風俗文化制度は片端から 破壊されていく。
破壊の果ては国体におよび国民道徳の根本にも 及ぼうとするのである。ここにおいてか神風連は国体擁護、古道護持のため、彼らがとってもって信仰する宇気比にかけて事を あげるに至ったのである。 (荒木精之著 「神風連実記」 序より)』
この文のあともまだまだ続くのですが、 ここで引用をやめておきます。 この荒木氏の文で どうにか神風連の特質が分った気がします。 このような精神的なバックグラウンドを持つ志士たちが 起こした神風連の乱の首領となったのが、『 太田黒 伴雄 』 です。 『明治九年(一八七八) 十一月九日の「東京日日新聞」に 次のような記事がある。
「去る二十四日の夜藤崎八幡宮の社前に集まりしが、面々思ひ思ひの打扮にて立鳥帽子に素襖を着る … 萌着威しの大鎧に同じ色の陣羽織を着し、白布の向ふ鉢巻して冑は態と着ず、二間柄の素槍を掲げたるものあり ……」。
熊本の神風連(敬神党)の決起の様子を 報じたものである。神風連の首領、太田黒伴雄は天保六年(一八三五)、熊本に生まれた。
江戸で朱子学、陽明学を修め、帰藩後、林桜園から国学、神道を学んだ。林門下の宮部鼎蔵、河上彦斎らと親しかった。
<幕末・明治> miki の 史跡巡り帳 【 熊本城内・千葉城公園 林桜園私塾 『 原道館跡 』 2007.4撮影 】
元治元年(一八六四)、 尊王攘夷運動に従事したかどで投獄され、保釈後に太田黒家に婿入りし、神道の道を歩むこととなる。
明治三年(一八七〇)、林桜園の上京に随行した。この時、林は、岩倉具視らに後事を託すように頼んだが、新政府はそれを受け入れなかった。
故郷に帰った太田黒は、下級武士たちを集めて 国学、神道などを講じ、敬神党を組織した。彼は新政府の方針を快く思わず、ついに廃刀令、断髪令などによって、その不満は爆発、挙兵した。
<幕末・明治> miki の 史跡巡り帳 【 熊本城内 『太田黒伴雄奮戦之跡碑』 2007.3撮影 】
砲兵大隊に当たり重傷を負い、後退中、法華坂で義弟大野昇雄の介錯にて自刃した。享年42歳であった。
( 学研 『 図説・幕末志士199』 より )
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神風連の乱は、 明治9年10月24日の夜に古来の刀槍の武器を手に決起し、 翌朝には敗走。 最終的には、 戦死28人、自刃86人を出して惨敗。 残った者もほとんどが捕らわれました。 その関係資料が、 熊本県熊本市黒髪5丁目桜山神社境内にある 『 神風連資料館 』 で見られます。
熊本大学黒髪キャンパス(有名な五高がる)の すぐ近くにあるのですが、 あまり人気のない資料館でした。
<幕末・明治> miki の 史跡巡り帳 みなさんも、 熊本に行く際がありましたら 士族の反乱の中ではあまり知られていない この 『 神風連の乱 』 の資料館に 足を運ばれてみて見て下さい。
<参考文献> ・「神風連資料館」パンフレット ・学研 『 図説・幕末志士199 』 AD
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