以前、東京上野の不忍の池の中に建つ寺、辯天堂に行った時に見た石碑の数々。
数ある石碑の中に、徳川家康の「眼鏡の碑」があるのを見つけた。徳川家康は眼鏡を愛用したとして伝えられている。当時の日本では眼鏡は造られておらず、家康が持っていた眼鏡は献上品であったと伝えられている。
眼鏡が発明されたのは13世紀のイタリアとされている。当時のイタリアでは、ガラス製造技術が盛んだったことも影響しているが、誰が発明したのかについては諸説あり、まだ明白ではない。
日本に初めて眼鏡が伝来したのは、天文20(1551)年に宣教師のフランシスコ・ザビエルによって周防国の大名であった大内義隆に献上されたものだといわれている。しかし実際に使用していたかどうかはわからない。それ以前にも、室町幕府の第12代将軍である足利義晴が所持していたものが現存する眼鏡として最古のものという説もあるが、これも実際に使用していたかは疑問で、ザビエルとの時代が合わないこともあり定説とはなっていない。
家康が愛用していた眼鏡は、耳にかけるタイプではなく手持ちの鼻眼鏡で「目器」と呼ばれており、現在も静岡県の久能山東照宮に重要文化財として納められている。
江戸時代はあまり視力が悪くなる要素は無かったが、家康は晩年老眼鏡として愛用していたようである。当時は珍しく高価な眼鏡を自慢がてら身に着けていたのかもしれない。
ガラスの製造は室町時代にいったん途絶え、江戸時代に復活した。鉛を含まないカリ石灰ガラスではなく、鉛ガラスが長崎に伝わり、国内で製造が再開されたのである。『和漢三才図会』の「硝子」には、鉛ガラスの製法について記されている。製造風景が描かれている『彩画職人部類」(明和7年、1770刊)の解説によると、当時すでに江戸でガラスがつくられていて、製品の種類も多くなっていた。
ガラス製の実用品といえば、まずは眼鏡。凸レンズの老眼鏡が流通し始めた頃は、耳に引っかけるツルの部分がまだついていないものが多く、レンズを固定する二つの輪をつなげたブリッジを鼻の上に載せるスタイルが主流であった。
メガネが日用品になったのは、江戸時代中期あたりからである。江戸後期になると行商の眼鏡売りが出回り、そのうち店も出て来た。
この不忍の池の辯天堂からまわりを眺めると、ビルまたビルの街並みである。誰かが餌をまいているのか、池のほとりにスズメ達が飛んできて、餌を突っついている風景に癒される。
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
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