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ザ・戊辰研マガジン

2022年10月号 vol.60

戊辰戦争で戦死した会津藩士埋葬の記録発見定説覆す

2022年09月19日 18:33 by tetsuo-kanome
2022年09月19日 18:33 by tetsuo-kanome

 戊辰戦争研究会の皆様は、この事実をご存知でしょうか?

 戊辰戦争で戦死した会津藩士のうち少なくとも567人が、藩の降伏から10日ほど後に埋葬され始めたとする史料が福島県会津若松市で見つかった。歴史研究家の野口信一さんが2016年12月、会津若松市役所で記者会見し発表した。これまでは新政府軍が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたものの史料には埋葬の場所や経費などが詳細に記されており、野口さんは「埋葬を裏付ける貴重な史料だ」と話している。史料は「戦死屍(せんしかばね)取仕末金銭(とりしまつきんせん)入用帳(にゅうようちょう)」。会津藩で要職を務めた藤沢内蔵丞(くらのじょう)の子孫が、1981年に若松城天守閣博物館へ寄贈した史料174点の一つ。野口さんが会津市史史料目録の編さん準備をしていた時に発見したという。これまで、会津では「遺体は埋葬を禁じられ、長期間放置されていた」との説が浸透し、長州藩など西軍の非道ぶりを象徴するものとされていた。野口さんは「長州への怨念の最大の要因が取り除かれた。これを機に友好関係を築いてもらいたい」と話している。1868年9月22日の会津藩降伏後、城下を統治していた民政局(越前、加賀、新発田藩など)から命じられた会津藩士4人が、人を使って、10月3~17日に567人の遺体を64カ所に埋葬したことが、34ページにわたって記録されている。文書には遺体の氏名や状況、服装なども書かれており、山本覚馬・八重兄妹の父親で戦死した山本権八に関して、埋葬者の中に「山本権八先生と覚(おぼ)しき人有」との記述もあった。ほかにも家紋の図など遺体発見当時の服装が詳細に記され、女性や子どもの遺体もあった。一族21人が自刃した家老西郷頼母邸で発見された遺骨、白虎隊士と思われる遺骨の記述もある。野口さんは「1869年2月に阿弥陀寺へ改葬したことを半年も放置したと誤認したと思われる。埋葬禁止説は昭和30年代以前はなかった」と説明。また、野口さんは「全ての遺体を埋葬したわけでなく、翌年になっても散在する遺体の捜索が続いていた」とした。新政府軍が遺体の埋葬を許さなかったとの言い伝えを完全否定し、「昭和40年代以降に言われるようになった話。新政府軍への遺恨の一つを考え直す契機でもある」とした。

【新聞各社の記事】

【会津若松市史研究会野口信一氏】

【「戦死屍取仕末金銭入用帳」】

【野口信一氏の著書「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実」】

【野口信一氏のプロフィール】

 元会津若松市立図書館館長、市史編纂兼務。現在、会津の歴史・人物のデータベースなどを主に作成する「会津歴史考房」主宰。また、野口信一さんは、大河ドラマ「八重の桜」で、資料提供を担当しておりました。

 

 戊辰戦争で戦死した会津藩士埋葬の記録が発見され、これまでの定説が覆されました事実を皆様もご存知だったでしょうか?歴史の事実をしっかりと捉え、これからの長州藩と会津藩の関係について、野口氏は「互いに言い分があるのはわかる。それを水に流し、歴史の教訓を生かして未来に向かうことが重要」と語っておられます。私も全く同感です。皆様もどう思われますでしょうか?

【記者 鹿目 哲生】

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