十津川郷士⑫(御守衛春秋・禁門の変)
前回に続いて 禁裏御所の守衛につく諸藩に比し、質と装備が劣弱であった十津川郷士が禁裏警衛のご用を果たすにはそれ相応の兵員数と装備が必要でした。
且つ、兵は訓練の行き届いた精鋭で、装備も最新の精巧な武器を整えておらねばなりません。そのころ、交代で宮廷を警固していた会津や薩摩、桑名、越前、水戸などの諸藩は、さすがにそのへんはぬかりなく、充実したものを持っていました。 が、十津川の御親兵は、その点で哀れなほど劣っていました。 頭数こそ二百人と、一応そろっていたものの、中には五十歳を超えていそうな白髪の老兵や武術など知らない樵夫、文字の読めない小前農夫など、誰が見ても御親兵には不適格なものが、相当数混っていたようです。
装備も諸藩はすでに新式の洋式銃を備えていたが、十津川の御親兵は火縄銃がせいぜいで、あとは伝来の刀槍だけ。これではとても外夷と対抗できまい。というので、御守衛の列から外されることになったらしいです。 そんな中、元治元年七月十九日(1864年8月20日)、御所を砲火に包む、いわゆる 「禁門の変」を迎えることになります。
「禁門の変」とは前年(文久三年)の八・一八政変で、京を追われた長州藩が、再び京に戻り、公武合体派に握られていた朝政を、尊攘激派の側に奪い返そうとして起こした軍事行動のことですね。 禁門の変については2015年1月に御所巡りをしたときに投稿した拙ブログにも書いて います。
禁門の変(蛤御門の変) 1864年(元治元年)7月19日 前年の8月18日の政変により京都を追放さ れた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職 松平容保らの排除と、自らの復権を目指して 挙兵し、京都市中も戦火により約3万戸が 焼失するなど歴史的な大事件であった。
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