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ザ・戊辰研マガジン

2022年10月号 vol.60

戊辰戦いの墓碑(二ツ橋の戦い)

2022年10月05日 12:16 by norippe
2022年10月05日 12:16 by norippe

 慶応4(明治元、1868)年6月29日、いわき市小名浜の南富岡、二ツ橋のあたり。
藤原川を挟み、西には、泉城から進んだ薩摩藩や大村藩からなる新政府軍、そして、東には、新政府軍に占拠された泉城を奪還すべく、小名浜から進んだ仙台藩などの奥羽越列藩同盟軍が陣取った。


二ツ橋


藤原川(右が矢田川)


富岡の山(下を6号バイパスのトンネルが通っている)


 午前5時半、戦いが始まった。 当初、戦況は一進一退、ほぼ互角だった。しかし、地元の人たちが富士山と呼ぶ小高い山の上に、新政府軍が大砲を運び上げ、そこから砲撃を始めると、形勢は一気に新政府軍の有利に傾いた。 ほどなく、奥羽越列藩同盟軍は総崩れとなり、敗走を始めた。それを新政府軍が追撃した。この日、戦場となって多くの死者が出た二ツ橋には、後に「仙台藩戦死者之碑」という大きな石碑が建てられた。


仙台藩戦死者之碑



 石碑には大槻文彦が書いた文章が刻まれ、次のようなことが記されている。

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 明治元(慶応4年、1868)年、戊辰の年に行われた奥州での戦いの折り、仙台藩はいわきに兵を出した。大隊長の富田小五郎や参謀の安田竹之助などが兵を率い、6月27日、長崎丸と大江丸、蒸気艦の3艘で、松島の石浜を出港し、翌日の6月28日、いわきの中之作に上陸し、小名浜まで進んだ。

 当時、磐城平には、陸路で、いわきに入っていた仙台藩の参謀、古田山三郎がいた。その古田がやって来て、「昨日、新政府軍は泉城を手に入れ、北に向かって軍を進めようとしている。私は北の磐城平から、そして、あなたたちは東の小名浜から、泉に向けて軍を進め、新政府軍を挟み撃ちにしよう」という作戦を提案した。

 二ツ橋の戦いでは、新政府軍は山の上の砲台から、見下ろすようにして攻撃した。一方、仙台藩は平坦な場所に構えたため、身を隠すところがなかった。また、新政府軍は浜の方からも攻め寄せ、背後を突いて来た。そのため、仙台藩の軍勢は散り散りになってしまった。
 早朝から昼頃までの撃ち合いで、多くの死傷者が出た。仙台藩は兵を引き、小名浜から中之作、さらには四倉まで敗走した。
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小名浜口からの泉攻略は同盟側の敗北に終わった。仙台藩兵の戦死者は、小名浜・ 中之作で73人であり、大変な負け戦であった。






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