【会津古城研究会の石田明夫会長の案内で「白虎隊の戦地を歩く」初めての歴史ウォーキングが開催された新聞記事。白虎隊士飯沼貞吉の孫の飯沼一元さんも参加されたそうです。(2015年10月17日】
【姥山の塹壕跡】
【菰土山の塹壕跡】
【会津藩二十二士の墓】
会津藩二十二士の墓は、この中に白虎隊士の3人が含まれております。戸ノ口原や滝沢不動滝上流で戦死した者は、伊東悌次郎16歳、池上新太郎16歳、津田捨蔵17歳の3人。その中の一人の伊東悌次郎は、山本八重の東隣に住んでおりました。八重は、悌次郎の死について『会津戊辰戦争』の中で次のように述べております。「悌次郎は、あの通り生年月の正誤を上表して白虎隊に入り、敢(あえ)て人後(じんご)にも落ちず、立派に飯盛山上の露と消えましたが、あの様(よう)な子供も君の為(ため)を思ふて、(銃の扱いを)熱心に習ひに来てあつたかと思ひますと、誠に可愛相(かわいそう)でなりません」山本八重は、伊東悌次朗を弟のようにかわいがっておりました。
【伊東悌次郎の肖像画】
【池上新太郎の肖像画】
【津田捨蔵の肖像画】
戸ノ口原古戦場は、国道49号線と交差する向かい側に、「戸ノ口原古戦場跡入口」の看板があり、国道49号と並行している二本松裏街道と呼ばれていた道沿いに「姥山の塹壕跡」や「菰土山の塹壕跡」「会津藩二十二士の墓」があります。訪問する観光客は、全くおらず、方々に「熊注意」「ヘビ注意」の看板があり、一人で遺構を巡るにはスリルを感じざるを得ませんでした。
【二本松裏街道】
【「沓掛峠」】
戊辰戦争時、白虎隊は戸ノ口原の戦いで敗走していったのが「沓掛峠」です。飯盛山の戸ノ口原洞穴へ逃げのびますが、強清水側の戸ノ口原洞穴の入口は見つけられませんでした。
私は、戸ノ口原古戦場は、二度目の訪問ですが、白虎隊の奮闘ぶりや、敗走するシーンを想像しながら、戊辰戦争当時にタイムスリップした気分で数々の遺構を巡ることができました。
【会津若松駅の白虎隊像】
【記者 鹿目 哲生】
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