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ザ・戊辰研マガジン

2022年11月号 vol.61

おやじのブログその16、「房総(富津)品川沿岸警備 」

2022年11月03日 16:35 by minnycat
2022年11月03日 16:35 by minnycat

房総(富津)、品川沿岸警備 〈会津藩「東蝦夷地」の防備と開拓を担う〉

 安政六年(1859年)九月幕府は、未だ未開拓地の多い「蝦夷地」沿岸に頻繁に姿を現すロシア船に対する警備、「函館港開港」に向けても、防備体制が重要となり、幕府はこれまでの「海防警備」に実績のある会津藩など四藩にのの警備を命じた。しかし、今回は「開拓」も同時に命じ、その地を領地として与えた。会津藩は「品川沖・第二台場」の警備を解かれ、さらに北端の蝦夷地の開拓と警備を命じられたのである。

                  -◇-

 幕府は安政五年(1858年)「大老」に就任した「井伊直弼」は、アメリカと「日米和親条約」を締結し、十二月にはロシアと「日露和親条約」を調印した。「函館」を開講するとともに、「下田」「長崎」も開港する。ロシアとは国境も定めた。翌二年二月には「蝦夷地」を「松前藩」から公収し、「函館奉行」の管轄に移した。三月には「仙台」「秋田」「津軽」「南部」「松前」藩に蝦夷地を分割し、警備を命じ、さらに翌六年には「会津」「庄内」藩にも命じてきたのである。

 会津藩はシベツ・シャリ・モンベツの三地方が会津藩領となり、「網走」は幕府直轄地であったが、その警備も会津藩が行うこととなった。 

                  -◇-

 会津藩はこのため、田中玄継を蝦夷地若年寄に任じ、副将代とし、その下に武官二百人、文官として普請奉行、代官、医者ら百七十六人を派遣した。函館、戸地地に「会津陣屋」「会津屋敷」「会津蔵産物所(会所)」を設け、「東蝦夷地」の本拠地とした。それぞれに藩士を派遣し、常駐させた。これらの維持費も膨大なものとなった。

                  -◇-

 こんな情況の中、会津藩は文久二年(1862年)、「京都守護職」の就任要請が命じられてくるのである。安政年間になされた外国との通商条約が朝廷(天皇)の勅許を得ないまま行われた事に対する不満等々が爆発し、「桜田門の変」「坂下門の変」が起き、また「攘夷」の声が巷間に湧き起こり、特に「朝廷」のある京洛には「天誅」と称する「テロ」が頻繁に起こり、「治安・世情」が大きく変化してきたのである。

 東蝦夷地警備 「東蝦夷地」の警備を命じられた会津藩は「陣屋」や「物産会所」「出張陣屋」を設け、多くの藩士を派遣した。安政六年(1859年)の事であった。文久二年(1862年)「シベツ」に「陣屋」を建設するため「鈴木平八」と「嶋影徳之助」が出張を命じられ、会津若松を出立したのが、八月六日「越後街道」から日本海側を北上し「青森」に入り、閏八月五日(9月28日)夕刻「函館」に至った。六日「戸切地」陣屋に至り、「四千六百両」で南部の大工兼松に請負わせ、翌文久三年二月二十六日(4月30日)建設が開始された。

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