二本松藩は、幕末当初、藩論は二分し明確さを欠いた。このため四月、奥羽鎮撫府・下参謀世良修蔵から、会津征討の命が下ると受諾した。
しかし、世良修蔵詠殺後、奥羽列藩同盟が結ばれると、大勢に順応して加盟するほかなかった。和銃が多く装備が劣とりながらも、四月十七日、奥羽鎮撫軍に属し、仙台藩とともに土湯ロ・岳湯ロに出兵した。
十九日、戦闘となるが岳湯村を守備する。当時、二本松藩は旧幕府から白河城守備を任じられていた。
閏四月、奥羽列藩同盟に加盟し、白河ロを守備、その後も白河の戦いに参戦し、藩兵の殆どが白河ロに出陣していたが、白河城奪還ならず、須賀川、郡山に布陣していた。
三春藩の同盟離脱の情報が報じられ、二本松藩兵の本宮待機中の守備隊長・樽井弥五左衛門が、七月七日、卒隊長・神田権之助、軍目・安田宗十郎ら一小隊(百余人)を率いて糠沢・城ノ内(上之内)に着陣し、名主・登那木次郎左衛門宅を本陣として、九日頃から約一里(四・し四方に一旦って大胸壁を構築し、要所に番所を建て、周辺の農兵ニ百余人の 守備兵を配置し守備態勢をとっていた。名主・登那木次郎左衛門宅の西端を南北に三春街道が続き、十丁余南で三春との藩境となり、この境に川が西東に流れ木の橋が架かっていた。二十五日に二本松藩兵はこの橋を落とした。
一方、三春に集結した西軍は軍議を持ち、板垣軍と渡辺軍に分かれ二本松城攻略へ七月二十七日出立と定めた。これらの隊とは別に、薩摩・土佐藩兵が糠沢・城ノ内への夜討ちの攻撃に侵軍する。
城ノ内古戦場
二十七日午前二時頃、三春城大手門前に集結した薩摩・土佐藩兵は百姓を道案内に雇い、藩境の二本松領松沢・白岩・糠沢に向けて侵軍する。薩摩藩兵は本道を、土佐藩兵は間道を進み、夜討ちを狙った。
午前二時頃、松沢番所が土佐二小隊に撃破され、次に塩崎番所も三方より攻撃を受け、二本松藩兵栗生庄司、笠間市之進が戦死、農兵は銃や刀で攻撃され死傷者が出た。白沢・糠沢村の農兵八人が戦死、三人が負傷している。午前時には堺番所が撃破され農兵は敗走する。
七月二十七日午前六時頃、名主・登那木次郎左衛門宅の本陣は、薩摩藩二、四、六番隊に三方より包囲され、本陣向いの三十メートル余の高台の松林中から大筒・鉄砲の攻撃を受け、不意を衝かれたが、直ちに反撃、少年隊の岩本清次郎(十七歳)、田中三次(十六歳)、中 村久次郎(十七歳)も銃撃に加わり勇敢に戦う。
だが三人は銃弾に撃たれた。その闘いぶりは賞讃されたという。
軍卒合葬塔
2024年春季号 vol.5
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