津軽海峡を望む青森県下北半島東部の尻屋崎(同県東通村尻屋)。その突端にそびえる「尻屋埼灯台」の建設に、戊辰戦争に敗れて会津から当地へ移り住んだ斗南(となみ)藩士らが深く関わっていたことが、子孫らでつくる「斗南会津会」(山本源八会長)の調査で分かった。同会は「斗南藩が下北に残した偉業を風化させてはいけない」と、埋もれた歴史の継承を訴えている。【遠山和彦】 同会の調査によると、明治4(1871)年6月、難破が絶えなかった尻屋崎沖の航行安全のため、斗南藩が明治政府の工部省に対し、灯台建設を文書で請願していたことが判明した。同年7月には廃藩置県により斗南藩は消滅したが、請願を受けて明治政府は実地調査に着手。明治6(1873)年に英国人技師の監督で建設が始まり、明治9(1876)年、レンガ造りに白塗りの尻屋埼灯台が完成した。
同会は斗南藩士の子孫らへの聞き取りも実施した。すると、当時の正津川村(現青森県むつ市)に在住した斗南藩士たちが、自藩の提案で始まった灯台建設のためにと地元産の粘土でレンガを焼き、陸路や海路で建設現場まで運んでいたことが分かったという。
一方、尻屋埼灯台から南方約3キロの高台には、戊辰戦争当時の会津藩主、松平容保の孫の故秩父宮妃勢津子さまが尻屋埼灯台を視察されたことを記念した記念の碑も残る。
勢津子さまは極寒の地で苦労を強いられた斗南藩士を思い、第二次世界大戦前の1936年10月、夫妻で尻屋埼灯台や近くの集落を訪問した。これをきっかけに尻屋地区の道路整備などが進んだとされ、感謝した住民らが2年後に建立したのが記念碑「感恩碑」だ。
しかし、同会によると、斗南藩と尻屋埼灯台建設の関わりは、これまであまり広く知られてこなかった。高台周辺は防風のため植えられた松林が生い茂り、斗南藩士の足跡をしのぶことのできる感恩碑の存在も、ほとんど目立たない。
「感恩碑を知る人は地元でさえ少なくなってしまった。斗南藩の偉業を埋もれさせることなく継承したい」。今月6日、改めて感恩碑を訪れた同会顧問の小町屋侑三さん(82)は力を込めた。会津出身者として初の旧日本陸軍大将になった柴五郎の顕彰に取り組む顕彰委員会(むつ市)会長の高屋龍一さん(41)も同行し、「感恩碑は当時の人たちの感謝の思いがひとつにまとまった大切なものです」と、郷土の歴史を受け継ぐ意義を語った。
毎日新聞 2022/10/12 05:30(最終更新 10/12 05:30) 斗南藩が建設に関わった尻屋埼灯台=青森県東通村尻屋で2022年10月6日午後3時51分、遠山和彦撮影拡大
読者コメント