会津若松市の教育長を務めた宗像精さんは、「戊辰戦争で会津藩は負けただけでなく、『賊軍』の汚名を長く着せられたのが問題だ」と今も憤慨しています。賊軍とは政府軍の「官軍」に対する呼び方です。日本思想史を研究する京都造形芸術大学の野口良平さんは「新政府軍が内戦に勝つため用いた『官軍と賊軍』という区分けが、戊辰戦争後も教育などの場に用いられたのが遺恨の要因になった」と分析しています。遺恨は解きほぐせないのでしょうか。
2017年11月26日には、会津藩公日新館の館長の宗像氏が山口県の松陰神社の立志殿で講演会を企画したのも山本医師。宗像館長は、「今後の会津と長州の関係については、仲直りはできない。歴史の事実を消すことはできない。史実をしっかりと残したほうが薩長と会津の結びつきは強くなる。私はできるだけ山本医師に会うようにしている。黙って行ったり来たりすればいい。会津では今でも長州に対し恨みつらみを言っている人がいることを認めながら、それを超越していく思考の重要性を指摘。世界は今混乱している。同じ日本人として日本の国際貢献を長州と会津が一緒にやりましょう。世界の人たちを目覚めさせていきましょう」と講演しました。講演会終了後、山本医師は「私も和解と言ったことはない。出来ることをやっていきましょうと言っている。仲直りするというのではなく、自然体でやっていきたい」と話した
宗像さんは講演で「史実を考慮すると仲直りはできない」と訴えました。「会津の悲惨な歴史をなかったことにするだけでなく、(1600年の)関ケ原の戦いの雪辱を果たした長州人の思いにも背く」と考えたからです。それでも山本さんと宗像さんは「民間の交流を通じて仲良くすることはできる」という認識では一致しています。実際、11年の東日本大震災後には萩市から会津若松市に義援金が届き、両市の高校が共同制作した歌を合唱したこともありました。 1月22日、両市の関係者が驚く出来事がありました。山口県が地盤の安倍晋三首相が国会での施政方針演説で、会津出身で東京帝国大学の総長になった山川健次郎に触れたのです。山川は白虎隊の出身ながら明治政府に登用され、貧しい若者や女性の教育を後押ししました。 「安倍総理には『会津は賊軍でなかった』と明言してもらいたい」と宗像さんは期待します。宗像精さんは、会津藩校日新館の館長として全国の子どもたちに会津藩士の教えを伝え続けています。
2017年11月に宗像さんは、旧長州藩の山口県萩市を訪れて講演しました。 「虚言(うそ)をいう事はなりませぬ」など会津の教えを伝え続ける宗像精さん。「会津と長州は仲直りはできないが、仲良くはできると訴えた。戊辰戦争で薩長は目的のために手段を選ばず、権謀術数の限りを尽くした。官軍と賊軍という区分けもその中から生まれたこと。結果的に勝った薩長が官軍、負けた会津が賊軍となったが、長州も一時は賊軍だったし、会津が朝敵となったことはない。だから双方とも賊軍などと言ってはいけないのに、会津だけが長く賊軍の汚名を着せられた。そういう歴史の事実を消すことはできない。歴史をなかったことにして握手する仲直りはできない」「心ない人間は会津にもいるし、長州にも立派な武士はいた。私が萩を訪れたのは会津人の思いを伝えるためと、山川健次郎の学業を助けた長州藩士の奥平謙輔と前原一誠の墓参りをして感謝するためだ。両氏の子孫は丁寧に出迎えてくれ、萩の人の誠実さと優しさを感じた。恨みつらみばかり言っても仕方ない。会津も長州も一緒に、世界のために貢献していかなければならないときだ。だから仲直りや和解などとは言わず、民間レベルで黙って仲良くしていけばいい」「私は歴史家ではないが、小学生時代に会津が賊軍だったと教える歴史の教科書を使わされた。親からは『会津は悪くない』と教えれたものだから、どうしても薩長憎しという感情が残った。戦後の教科書からはそのような記述は消えたが『勝てば官軍、負ければ賊軍』という歴史のとらえ方は今も残っている。会津は賊軍ではなかったし、朝敵でもなかった。その歴史的事実が確かめられるのを見届けてから、あの世に行きたい」
長州藩の城下町・山口県萩市に招かれて講演をした会津藩校日新館館長の宗像精さんが2018年2月に会津若松市内で講演し、長州との関係について「仲直りはできない。何があったか、歴史をきちんと知ることで(仲直りをするより)絆は深まる」と述べた。講演は宗像さんが会長を務める山川健次郎顕彰会の「新春の集い」で行われた。約200人を前に、宗像さんは萩市でも「仲直りはできない」と語ったことに触れ、「仲直りとはお互いに悪かったと謝ることだ」と説明。「会津には長く『賊軍』『朝敵』とされた歴史があり、薩長にも徳川幕府を倒すための理由があった。先人たちの思いを考えると、簡単に仲直りはできない」と語った。 その一方で、郷土の歴史教育を重視する萩市との交流を深める大切さに言及。「子どもたちに歴史をきちんと教えることが重要だ。そのためにも大人がしっかりしなければならない」と述べた。
【会津日新館】
【会津日新館 宗像館長】
いま改めて、会津日新館の宗像館長が、2017年11月に初めて萩市を訪問して、講演されたことを検証したいと思いました。
そもそも、長州藩の吉田松陰は、日新館を見学するために会津を訪問し、宿泊したのが「清水屋旅館」。 当然のことながら戊辰戦争以前は長州藩と会津藩は普通の関係にあった。それ故に、吉田松蔭も二度にわたって会津を訪れ、高津平蔵と見聞を深めていた。
しかし、元治元年(一八六四)七月、京都での尊攘派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体派軍との軍事衝突したのが禁門の変。元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。文久三年(一八六三)八月十八日の政変は、それまで京摂間で猛威を振るっていた尊攘派の勢力を一挙に京都から追放した。長州尊攘派に擁せられた三条実美以下七卿は長州に下り、京都では公武合体派が勢力をもり返した。そして、同年十二月から翌元治元年正月にかけては、将軍後見職一橋慶喜以下松平容保・松平慶永・山内豊信・伊達宗城・島津久光が参予に任じられ、いわゆる参予会議が成立した。この会議は長州藩の処分問題を論じ、その征討軍組織も内定した。一方、長州藩では、八月十八日の政変後、藩内は分裂し、これまで尊攘運動を推進していた「正義」派に対して、「宗祀の保全を謀る」ためには幕府に恭順せよという「俗論」派が台頭し始めた。しかし、長州藩家老井原主計の藩主雪冤の入京請願は朝廷側の長州藩への心事疑惑によって許可されなかったから、藩内には上下ともに反抗的気運が生じ、なかでも諸隊などは強硬な出兵論をとなえた。ところが、やがて参予会議は分裂し、公卿の一部や因幡・備前・加賀などの諸藩の間には、長州への同情の動きもみられ始めた。元治元年三月、水戸藩では武田耕雲斎・藤田小四郎らの天狗党が挙兵した。ついで六月、新撰組は、京都守護職・所司代の兵とともに、尊攘派の勢力挽回を画策していた長州藩士や志士たちを京都池田屋に襲った。この池田屋事件の報が長州に届くや、藩内は進発論に転じ、世子毛利定広および福原越後・国司信濃(くにししなの)・益田右衛門介の三家老の上京を決定した。その軍容は、「第一 浪士一達三百人、第二 福原越後三百人、第三 游撃軍四百人、国司信濃百人、第四 益田右衛門介三百人、讃岐守様二百人、第五 長門様并ニ御当家様と相聞候」(『吉川経幹周旋記』一)とあり、攘夷国是の嘆願、五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)の冤罪哀訴、浪士の鎮静などを名目とした出兵であった。この出兵進発には宍戸九郎兵衛(左馬之介)や桂小五郎(木戸孝允)らは反対し、麻田公輔(周布政之助)や高杉晋作らは慎重論をとなえた。久坂玄瑞は当初慎重論だったが、遊撃軍を率いる来島又兵衛や真木和泉(久留米水天宮神官、在長州)らの強硬論におしきられた。出兵にあたり、遊撃軍をはじめとする忠勇・集義・八幡・義勇・宣徳・尚武の諸隊には、農民や商人に対して無理な取扱いをしない、田畠その他を荒らさないなどを含む厳しい軍令が出された。かくて、先発の福原軍は六月二十四日伏見に着陣、以後、山崎・嵯峨などに長州勢は屯集し、京都の包囲態勢をとった。また、七月に入ると、毛利定広および五卿も上京の途につき、京洛の地は不穏な空気がみなぎった。これに対し、朝廷および禁裏守衛総督一橋慶喜ら幕府当事者は、この対策に苦慮し、長州側からの嘆願の扱いなどを協議するかたわら、会津・桑名・薩摩以下の諸藩に命じて洛中洛外および宮門内外の警備にあたらせ、さらに東海道・中山道筋その他に長州藩出兵抑止の命を下した。この間、幕府側と福原越後をはじめとする長州側との交渉、真木・久坂らの陳情書の提出などが行われ、相対すること二十日余り、ついに七月十八日夜半から長州軍は行動をおこし、十九日早朝、京都守備軍との間に戦端が開かれた。伏見の福原勢は越後の負傷で入京できず、嵯峨の天竜寺に屯集していた国司・来島軍は二手に分かれて、国司軍が立売門を突破すれば、来島軍は蛤門に迫って激戦を展開、来島は狙撃されて戦死した。山崎にいた真木・久坂らは堺町門に向かい、福井・桑名・彦根をはじめ応援の薩摩・会津の諸藩兵と交戦、久坂・寺島忠三郎らは負傷して鷹司邸に至って自尽した。真木もまた傷を負って天王山に退き、切腹した。流れ弾は御所内にも飛び、時の皇太子睦仁親王(のちの明治天皇)は気を失い、公卿中御門経之が水をふくませて息を吹きかえした、という。戦いは一日で終ったものの、京都の火災は二十一日まで続き、市中焼失の家屋は二万八千余戸に及び、罹災者・避難民の行列は延々と続いた。また、この火災で六角の獄中にあった志士たちは多く殺害された。長州三家老は敗兵を収めて帰藩し、定広も途中から引き返した。かくて、長州側にくみした宮・公卿は処罰され、七月二十三日には長州藩追討の令が出され、翌日には中国・四国・九州の二十一藩に出兵令が下され、第一次長州征伐の端緒となったのである。この禁門の変は、文久二年以降の尊攘運動に終止符をうち、朝廷・幕府にあっては公武合体派を分解させ、長州藩においては、四国連合艦隊の下関攻撃と相まって、元治の内戦を経て討幕派の成立を促した。
会津藩は、朝敵となった長州藩を徹底的にこの際叩くべきであるとの立場から、長州征伐を主張した。その目的の完遂のため、容保は14代将軍家茂自らが出陣することを強く求め続けた。しかし、幕閣の反対もあって、会津藩の執拗な周旋にもかかわらず、その実現は困難を極めた。結局、家茂の進発は見送られ、前尾張藩主の徳川慶勝(容保の実兄)が総督となり、ようやく10月に至り、第一次長州征伐が始まったのだ。しかし、慶勝は幕府軍の敗北や諸藩の非協力を恐れ、それまで会津藩と協力し、長州藩厳罰を唱えていたはずの薩摩藩・西郷隆盛の寛典論に従い、干戈を交えずあっけなく解兵してしまったのだ。容保にとって、あってはならない事態であり、断固として容認できない展開であった。また、この流れの中で、薩摩藩との連携関係が破綻することは決定的となった。第一次長州征伐後の幕府の矛先が薩摩藩に向かうことへの警戒心から、薩摩藩・島津久光は藩地に割拠して、貿易の振興や軍事改革・武備充実による富国強兵を目指しており、幕府から距離を置いて将来の戦闘に備えるという「抗幕」志向に転換していた。しかし、会津藩は第一次長州征伐の前から始まっていた、薩摩藩の変心をなかなか察知することはできなかった。長州藩のみならず、薩摩藩の動向も注視せざるを得なくなり、まさにここからが、容保および家臣団の苦悩の始まりであったのだ。
歴史上、「禁門の変」で御所に向かって発砲したのは長州藩であったことは皆さんもご存知ですよね。つまり、完全に『朝敵』だったわけです。幕府からの度々の長州征伐で長州藩は幕府側だった会津藩との距離は広まるばかり。薩長連合となってからは「会津憎し」の感情が増大していきました。戊辰戦争では、江戸城無血開城により、会津藩は新政府軍のスケープゴートとなってしまいました。一番謎なのは、徳川慶喜や勝海舟が会津藩を見捨てた経緯が闇の中です。会津藩としては、新政府軍の中心が長州藩だったことから、現在に至っても会津側は「仲直りはできないが、仲良くはできる」と主張されております。上記、会津日新館の宗像館長や山口県の医師山本氏は、民間レベルでのお互い歩み寄りを行っておりますが、残念ながら会津若松市長と萩市長の笑顔での握手は実現しておりません。
私はいつの日か会津と長州で話し合いの場が設けられ、民間レベルでしっかりと地固めをして太いパイプを作り、過去の遺恨が解消され、しっかりとお互いで丁重に謝罪したうえで、笑顔で会津若松市長と萩市長ががっちりと握手として友好都市になることを強く願っております。未来の会津人のためにもそうなってもらいたいものです。
【記者 鹿目 哲生】
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