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ザ・戊辰研マガジン

2019年05月号 vol.19

村上殿の日々徒然

2019年05月05日 22:33 by murakamidono
2019年05月05日 22:33 by murakamidono

IV 生家と親族の歴史ロマン

  幕末に武州深谷の渋沢一族は揺れたが、最終的に幕府側についた。渋沢栄一の妻 の弟が幕府側の急先鋒である。渋沢一族から彰義隊隊長に推薦された人もいる。

  そのころ渋沢一族に10歳位の少年がいた。体が大きく色白の男子である。明治7年頃、富岡製糸場が竣工。初代工場長は渋沢の親族である。工女第一号も同じ。 信州松代から横田英(えい)さんががきた。静岡依田から6人の工女がきた。 後ほど、長州から工女が沢山来たが、横田英さんと馬が合わなかった。英さんが好きなのが依田工女である。

  富岡製糸場ができたのは、近くに高山長五郎の養蚕技があったからである。 長五郎は「高山社」という養蚕の先生を養成する「学校」を作った。ここの先生 の一人が「貞次郎」さんである。体が大きく色白。日本人離れした人物である。 正式には、高山社では「養蚕の技」を教え、養蚕の先生を養成するのは藤岡であ るが、藤岡には何も残っていない。

「事実は小説より奇なり」というが、後年、この貞次郎が私の母の生家の家族になるのである。想像できない。

  とにかく、後年、貞次郎夫婦は私の母の父に会った。(貞次郎のお孫さんが村 上市に市で最大級の会社を設立。「旭」という字がつく会社で、社長の苗字は 「斎藤」である。驚くことに、現在でも、貞次郎物語を知っている人が藤岡に30 人はいる。中には「教授」を付ける人もいる。

  私の故郷に来た貞次郎夫婦はIIIに記載の空き家に住むことになった。その南側 に観音様があり、その「お守り」をした。私の生家のすぐ後である。ところで、 貞次郎の妻であるが、「どんな人か」に関して。はっきりしたことは書けないが、 小千谷(おじや)出身の小林麻央に似ていると想像する。歌舞伎役者市川の妻で した。

  養蚕のことなら何でも知っている貞次郎さんは、私の祖母と母に「ざくり」を 教えた。「ざくり」とは繭から絹糸を作る装置である。貞次郎は「えびら」も編 んだ。「えびら」とは養蚕道具の一つで、蚕のベットの下に敷くものである。高 山社へゆけば見れる。

  明治期、養蚕のメッカは上州と福島の伊達郡と二本松である。私の生家は「養 蚕の家」であるが、元をただすと貞次郎のおかげである。明治43年、貞次郎が他 界した。村人は彼の死を惜しみ、山から石碑になる石を運んできた。その石碑は 今もある。

  生家と親族の歴史探訪は面白いが、書いてはならぬこともある。まだ、話のタ ネはいくつかあるが、いったん、これで締める。絵を沢山描かねばならない。

  戦後までの故郷の出来事を書きました。現代はずいぶん風潮が変わり、このよう なことは、まずは起こらないと思います。人は、みなそれぞれ、自分の「先祖探 し」があると思います。私は、故郷の神仏、冠婚葬祭などをまとめてまいり、25 巻程度になりました。全部、本にするのは難しいので、自分で、本にしたいと思 います。

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