昨年の大河ドラマ『西郷どん』……2018年1月7日の第1回目から計47回が放送され、平成最後の大河ドラマとして、毎週視聴されていた方も多いだろう。
記念すべき第1回目の放送冒頭で、現代の上野公園における「西郷隆盛の像」が映るシーンがある。『西郷どん』の物語は、明治31年12月18日に挙行された西郷像の序幕式の場で、西郷夫人・糸が「うちの旦那さまは、こげな人じゃありもはん!」と叫ぶところから始まるため、それに合わせて西郷像が映されたのだろう。しかし私は、冒頭のシーンで西郷像にカメラがズームインしていくとき、その左手側に注目していた。カメラから見た左手は、ちょうど西郷像の背後にあたる場所。そこに何があるのか、読者の方々はよくお分かりだろう……そう、「彰義隊の墓」である。
彰義隊とは、大政奉還後の江戸において、徳川慶喜の警護や江戸市中の治安維持などを目的として結成された幕府方の部隊である。慶応4年5月15日、上野の寛永寺周辺に布陣していた彰義隊に対して長州藩の大村益次郎率いる新政府軍が総攻撃を行い、彰義隊は壊滅的な被害を受けた。世にいう「上野戦争」である。そんな上野戦争が勃発した5月にちなみ、今月は「彰義隊の墓」にまつわる碑文に目を向けてみることとする。
Wikipediaによると、彰義隊は「戊辰戦争の一環である上野戦争で明治新政府軍に敗れて解散した」と表記されている(2019年5月1日現在)。しかし、上野で壊滅的な打撃を受けるものの、彰義隊の生き残りは榎本武揚ら旧幕府海軍とともに仙台、箱館へと転戦していき、蝦夷彰義隊を結成しては箱館戦争を最後まで戦い抜いている。よって、彰義隊の解散時期は上野戦争ではなく、箱館戦争の終戦時というのが正しいといえよう。その点、日本語以外の Wikipedia のページを見てみると、上野戦争時の彰義隊は「ほとんど完全に壊滅させられた」(英:they were nearly exterminated. / 仏:il a presque été exterminé. / 伊:furono quasi completamente sterminati.)と書かれており、日本語よりは表記が幾分か正確である。
一説には、西郷像が「彰義隊の墓」の正面に建てられたのは彼らの墓を隠すためとも言われているが、現在の墓所はどのような状態になっているのだろうか。墓石は南側を向いて建っているため、正面に立つと我々は北を向く配置となる。墓石を眼前にしたとき、左手に英語で書かれた表示板が設置されている。
TOMB OF SHOGITAI WARRIORS (彰義隊の戦士たちの墓) At the fall of the Shogunate Government in Edo, Shogitai warriors resisted the new Meiji Government to the last and died here on Ueno hill. (江戸における幕府の崩壊において、彰義隊の戦士たちは最後まで新しい明治政府に抵抗し、上野の丘のここで亡くなった) |
そして、表示板の隣には、東京都台東区が平成8年3月に設置した比較的新しい説明板が建っている。加えて、当該説明板の場所から階段を上がり、墓石の眼前まで近づくと、その左手側にも別の説明板が建てられている。こちらは設置者名が明記されていないが、説明を読む限りでは、東京都が建てた可能性が高いと考えられる。2つの説明板のうち、前者を【A】、後者を【B】として両者の記述を比較しつつ、彰義隊がどのように紹介されているのかを見てみたい。
【A】彰義隊の墓(台東区有形文化財) 台東区上野公園一番 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八年)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。 正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって建立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。 平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登録された。 平成八年三月 台東区教育委員会 |
(下線は筆者による付記)
【B】彰義隊の墓 十五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷(おきさと)らは、慶応四年(一八六八年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。 生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦士の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。 |
(下線は筆者による付記)
【A】と【B】の説明は、大筋では一致しているものの、以下の2ヵ所に記述の差異が確認できる。
①上野戦争における彰義隊の末路について
②彰義隊の墓の建立時期について
まず、①上野戦争における彰義隊の末路についてであるが、【A】が「彰義隊は同夕刻敗走した」と説明しているのに対し、【B】は「新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた」と説明している。菊地明『上野彰義隊と箱館戦争史』(新人物往来社,2010年)を見る限り、上野戦争における実質的な戦闘時間は「午前七時頃から夕刻頃まで」と推察される。そのため、新政府軍と彰義隊の戦闘は半日弱であり、夕刻頃には片が付いたとして、記述は正鵠を得ているといってよい。ただ、「敗走」と「壊滅」という表現は、それぞれ読み手に異なる印象を与えるものであろう。上でも述べたが、彰義隊の生き残りは敗走後に北へと転戦しており、部隊が全滅したわけではない。そのため、「壊滅的」な打撃は被ったであろうが完全に「壊滅」させられてはいないため、この点において【B】の説明を判読するには若干の注意が必要である。
続いて、②彰義隊の墓の建立時期について、【A】は「大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって建立」と説明しているのに対し、【B】は「生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦士の墓を建立した」と説明している。両方とも小川興郷らが墓を建立したという同じ事柄を述べていると思われるが、関連する時期について一方は「明治14年」、もう一方は「明治7年」と、両者の間に7年の差異が見受けられる。ただ、ここは読み方によって異なる解釈ができ、小川らは明治7年に「新政府の許可」を得て、7年後の明治14年に「彰義隊戦士の墓を建立」したとも考えられる。つまり、【B】の方に書かれている明治7年という年代は墓を建てる許可を得た時期であり、墓の建立の時期ではない、という見方である。菊地 (2010) によると、墓は「明治十四年に建立されたもの」(p.68)であるとされており、この時期は【A】の説明とも一致していることから、墓は明治7年ではなく明治14年に建立された可能性が高い。そのため、彰義隊の墓の建立時期を見るにあたっては、【B】よりも【A】の説明を読む方が蓋然性が高いといえよう。
以上、彰義隊の墓の建立時期について述べてきたが、実際の墓碑は明治2年に建立されている。現在、彰義隊の墓所には、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字が刻まれた高さ6.8メートルの墓碑が据えられている。しかし、その正面には60センチほどの「慶應戊辰三月十三日 彰義隊戦死之墓」と刻まれた別の小さな墓碑が据えられており、実はこちらの方が先に建立された「彰義隊の本来の墓碑」なのである(説明板【A】に、この小さな墓碑に関する若干の記述がある)。上野戦争直後の時期において、彰義隊は新政府に抵抗した所謂「賊軍」であり、明示的な墓碑を立てるのが困難だった。明治14年建立の山岡鉄舟による墓碑銘にも「戦死之墓」とあるのみで、彰義隊の名が書かれていないことからも、それは明らかであろう。ゆえに、先の「彰義隊戦死之墓」と明確に刻まれた墓碑は地上に据えられたのではなく、同地の地中にひっそりと埋められていたものであり、明治14年の「戦死之墓」の建立中に土中より発掘されたようである。あまり目立たない小さな墓碑であるが、本文を読まれた方が次に同地を訪れた折には、ぜひ本来の墓碑も注視してもらえれば幸いである。
現在でも上野公園内の彰義隊墓所には献花が絶えず、多くの観光客が墓碑の前で足を止めている。一方で、南千住の円通寺にも同様に存在する「彰義隊の墓」には、あまり人が足を運んでいないのか、上野のそれとは大きく異なる様相を見せている。次回は、円通寺における彰義隊の墓所と、同地に据えられた碑文に目を向けてみたいと思う。
(文責:有田 豊)
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