「九段坂」は九段下交差点から靖国神社の南側に至る坂。坂の南側には皇居北の丸、武道館があり、北側には靖国神社がある。
九段坂近辺の地図
江戸幕府が四谷御門の台地より神田方面に下る傾斜地に沿って九層に及ぶ石垣の段を築き、江戸城に勤務する役人のための御用屋敷を作ったことから、この界隈が九段と言われるようになったのである。当時の九段坂は、牛ヶ淵の崖っぷちを通る細くて勾配がきつい坂道であった。
牛ヶ淵側から見た九段坂の古写真
江戸時代は徒歩でしか通行できない道であった。明治以後、段差を廃して坂道となり車の通行が出来るようになった、しかし見上げるような急傾斜であったため、荷車を上げることは相当困難であった。そこで、食い詰めた人々が「立ちん坊」とよばれる人足となって九段坂下で待ち受け、大八車の後押しを生業とする押屋がたむろするようになったのである。一回の報酬は一銭だったという。
この坂上からの眺望は素晴らしく、江戸湾はもとより、神田、日本橋、浅草、本所、そして安房、上総の連山も眺められ、そして月を眺める名所としても名高い場所であった。毎年一月と七月の二十六日を、二十六夜持ちと称し、人々が坂上で月の出を賞したという。
永井荷風は『日和下駄』の中で「東京市は坂の上の眺望によって最もよく其の偉大さを示すと云ふべきである」と書いていて、九段坂、三田聖坂などを挙げている。
坂南側の九段坂公園こある「常燈明台」は、明治4年当時陸軍偕行社のあった地(現在の東京理科大)に招魂社(現靖国神社)の献灯として建てられ、品川沖の船の目印となり、遠くは房総沖からも見えたという。震災復興計画による靖国通りの拡幅にともない、通りの南側、田安門入口に設けられた九段坂公園の現在地に移されたのである。
常燈明台
この坂は、古くは別名「飯田坂」とも言われていた。明治40年に電車が開通したが、その時この急坂を避け、南側の牛が渕の一段低いところを専用通路で田安橋で通り、千鳥が淵に沿って五番町(英国大使館前)に出ていた。九段下から道路を外れ、現在の公園地や消防署の辺りを通って千鳥が淵に抜けたのである。
関東大震災の後、坂の勾配が改良され、その後内堀通りも開通して電車は通りの真ん中を走るようになり、九段坂上の停留所も内堀通りの交差点に移り、靖国神社の二の鳥居前からこの通りを半蔵門・三宅坂に向かうことになったのである。
その後、幾多の変遷を経たのち、関東大震災後の復興計画が行われ、昭和八年(1933年)にこの町の区画整理が完成した。町を東西に走る大正通り(現靖国通り)や南北に走る内堀通り、目白通りが拡幅整備され、都心部の重要な拠点となったのである。さらに町名も、飯田町一、二丁目と同四丁目の一部を合併して九段一丁目となった。
急だった九段坂は拡幅・掘削されて勾配がゆるやかになり、ここに市電が走るようになった。そして九段坂は神田・両国方面と新宿・渋谷方面を東西に結ぶ幹線道路となったのである。
坂下から見た九段坂
九段坂の途中の交差点、左に行くと田安門、右が靖国神社へと続く
この九段坂の途中、田安門の入口近くに「常燈明台」があるが、それに並んで品川弥二郎の像が建っている。品川弥二郎は元長州藩士で、吉田松陰の松下村塾に学び、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として参戦し、錦の御旗を掲げての「トンヤレ節」はこの品川弥二郎が作詞したと言われている。
品川弥二郎像
そしてそのそばには乗馬している大山巌の像が建っている。大山巌は元薩摩藩士。戊辰戦争では各地を転戦した。会津の戦いでは、鶴ヶ城の北出丸で山本八重が放つ弾丸に右股を撃ち抜かれ負傷して戦線を離脱している。終戦後はこの鶴ヶ城で籠城していた山川捨松を後妻に向かい入れている。
大山巌像
また、坂の北側の靖国神社には大村益次郎の像が建つ。大村益次郎は幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。維新の十傑の一人に数えられ、戊辰戦争では、東征大総督府補佐となり、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者で元の名を村田蔵六と言う。大村は京都の旅館で会食中、元長州藩士ら8人の刺客に襲われ大きな深手を負った。その時の傷がもとで手術の甲斐もなく死去している。
鳥居の先に建つ大村益次郎像
九段坂上から見た靖国神社の大鳥居(第一鳥居)
このように、九段坂は戊辰戦争に大きく関わった人物の像が建てられ、明治維新を彷彿する場所となっているのである。
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