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2021年04月号 vol.42

磐城戊辰戦争における七曲、八帆入橋、新田山

2021年04月04日 22:29 by norippe
2021年04月04日 22:29 by norippe

 これはミニミニ講演会で行われた「磐城戊辰戦争における七曲、八帆入橋、新田山」と題した会報誌からの掲載になります。慶応4年六月ニ十八日の薩摩・備前・大村藩の進路を中心にした磐城戊辰戦争の流れを解説したものです。講師は加茂泰弘さん

「磐城戊辰戦争における七曲、八帆入橋、新田山」
慶応四年五月二十ハ日から六月二十ハ日までの戊辰戦争に関する主な出来事
五月二十ハ日
 輪王寺宮平潟に上陸。鈴木主水屋敷で休息。(屋敷は、数年前までは残っていたが、現在は更地になり石碑が立っている。平潟漁港が見下ろせる高台にある)その後、甘露寺村慈眼院に宿泊。
六月十六日
 薩摩(四〇七人)、佐土原(約一五〇人)、大村(一四二人)の藩兵が平潟に上陸。富士山丸には、江戸から泉藩の星野厳、浦越井保太郎が乗り込んだ。
六月十七日
 仙台・平・泉・湯長谷・遊撃隊が平潟奪還に来て、勿来切り通し付近で戦闘。岡崎脱藩藩士隊長和多田貢が狙撃され死亡。首は、渡部村万福寺に葬った。平藩では、猪瀬次郎、国府田覚次郎、神谷外記の従僕が討ち死にした。泉藩では、折井金三郎が討ち死に、江沢正光が捕虜となった。戸沢賢次郎は、大村藩参謀渡辺清左衛門の従僕となった。
六月二十日
 柳川・岡山藩兵が平潟に上陸。泉藩士荒木恭次郎が藩校汲深館にて自害。
六月二十ニ日
 添野(新田坂下)にて戦闘。泉藩士の清水加兵衛(嘉兵衛)戦死。泉藩士の松井秀簡が城外鹿島神社の階前で自刃。
六月二十四日
 植田攻防 長谷に駐屯していた遊撃隊と仙台兵は、施設を西軍の宿泊に利用させないこと、宿場の人々が西軍に情報や食料の便宜供与をさせないようにするためとして大島に放火。植田の宿も焼き払う。八幡山(現在の「やまたまや」周辺)で戦闘。新田峠でも戦闘。
六月二十八日
 西軍は、小浜の七曲の砲台を攻撃。その後、剣浜で敵を打ち破る。その後、泉藩陣屋および新田坂の戦い。

 西軍の諸隊はそれぞれの宿営を出て植田村で勢揃いし、前日の軍議に従って二手に分かれて前進を開始した。佐土原・柳河両藩は山手本道を進み湯長谷を抜き磐城平へ、薩摩・備前・大村の三藩兵ば浜手を行き泉を経て磐城平へ向う予定であった。

薩摩藩の私領二番隊の記録
「私領二番隊戦状」
 同月廿八日、二字五分時、平潟繰出、関田辺りにて、各隊待揃。私領二番隊は当日、先鋒前にて、一分隊、為斥候(せっこうのため)、植田より先へ踏越候処、幅二間余之川、橋も引落し有之(これあり)、難致通行(つうこういたしがたく)候付、近辺之家より梯子二丁持越、川へ掛け、夫(それ)より追々相渡。諸所、賊巣致探索(ぞくたんさくいたし)候処、七回と申候(もうしそうろう)て、別て嶮岨〔けんそ)之坂有之(のさかこれあり)、右之所へ屯集之由承〈とんしゆうのよしたまわり)、道之儘(みちのまま)相進候処、坂之半腹にいたり、賊徒、大砲居付(すえつけ)相堅居候付(あいかためおりそうろうにつき)、半隊は道之儘〔みちのまま)、進撃、半隊は左之山、嶮所(けんしょ)をつたひ、吐気(とき)を揚、烈敷致砲発(はげしくほっはついたし)候処、大小砲打捨逃去候付、剣浜へ進軍いたし候処、浜手之方、小高き所より、大砲打掛候付、私領二番隊、半隊二分、一手は浜手、一手は山を乗越、双方より致砲発候処(ほうはついたしそうろうところ)、是亦(これまた)、大砲打捨逃去申候付(たいほううちすてにげさりもうしそうろうつき)、追討。既に泉城下にて、吐気を揚、私領二番隊は大手門へ向候得共(むかいそうらえども)、扉難押破(とびらおしやぶりがたく)候付、門脇、窓戸連子(まどれんじ)切破、夫(それ)より這入(はいいり)、大門(おおもん)を明(あけ)、同勢押入候得共(どうせいおしいりそうらえども)、賊は都て(すべて)逃去申候(にげさりもうしそうろう)。
 ※私領一番隊は、城下町の入り口のところで私領二番隊に追いついた。私領二番隊は城の大手門に、私領一番隊は搦手門に向かった。搦手門からは私領一番隊が最初に陣屋内に入った。私領二番隊も大手門から陣屋内に入った。

戊辰戦争の時、両軍は鮫川をどのように渡ったか
(奥州大合戦ノ目録 明治元年、佐土原藩の関係者の記述)
 同盟軍が植田村へ急行したが、追討軍の姿はなく、そのため大島村に渡ろうとした。この際に、渡し人足とのやりとりを「舟越(船頭)呼、賃銭は何程(いかほど)成とも与える、草々越えるべしと申共(もうせども)、是はいかに御侍様なりとも御無理に御座候哉と申上る、何のめんどうと肩腕切りおとす。
舟越共は肝をつぶし舟流るるもいとわずこぎ出し、…」


鮫川

(鷺清兵衛の記録)
「鮫川渡舟場には舟橋がかけられ、続々と奥羽連盟軍はこの橋を渡り、関田浜へ繰り出した。…」
(藩士十六人の覚書 神谷外記書上げ)より
 暫(しばらく)休息致し、夫(それ)より植田村にて軍議いたし、鮫川へ舟橋掛候方便利の旨、同所同心藤太郎申出候問、可然(しかるべし)、早々為掛(そうそうかけさせ)候様申談じ、除々と繰出し関田村外れ須賀の辺り、明民家に立寄
同盟軍…この日は舟橋をかけさせて渡ったことがうかがえる。
西軍…資料がないので不明である。

七曲について
 七曲と呼ばれているところは、勿来地区には最低二つはある。
 ①岩間と小浜のヘアピンカーブだったところ。(現在は、エ事が終わり火力発電所近くからのなだらかな直線の坂道になっている。)岩間や小浜の人は、七曲というとこちらを指す人が多い。
 ②大畑と小浜の間のくねくねした道路(老人施設「生きがい村」の近く)泉の人は、七曲というとこちらを指す人が多い。


七曲



 ※泉藩が砲台を設置したところは、地理的状況(方角や高低差)から考えて岩間と小浜の間の可能性が高いと思われる。しかし、大村藩の資料には、「同盟軍は、小浜東方の山上に設けた陣地で防戦。官軍攻撃隊は二手に分かれ、半隊を以て敵陣地の西方高地に分進し横撃。同盟軍は、大小砲を置き去り「大剣陣地」を経て、北方に向かって退却。」との記述がある。小浜の中心街から東というと「生きがい村」の方になる。
 ※岩間東方ど書きべき所を小浜東方と書き違えたか?

八帆入橋について
 西軍は、大剣での戦いの後、釜戸川にかかるハ帆入橋を通って泉陣屋を攻撃した。ハ帆入橋は、泉藩の本多忠簿公の紀行文「去年の枝折(こそのしおりご(一ハ〇一年)に登場する橋である。「去年の枝折」に次のような文がある。「黒須野の山うちこ経て、茅手堤にやすらい、池の面を見渡すに、〈省略〉
 羽黒の山、相生の松も過行て八掘橋にかかれは、渓舟か子供三人出迎へたり。…」このことから、昔から、今の場所に橋がかかっていたことがうかがえる。


八帆入橋

新田坂、新田山について
 新田坂というと昔から「追いはぎが出た所」「戊辰戦争で官軍と同盟軍が戦ったところ」と言われ、地元では、年配の人には有名な場所である。東京の作家「上泉秀信氏」が、渡辺村の文化向上のため当時の村長に請われ、移り住んだところでもある。渡辺町の遠藤靖さんの話では、現在私たちが車で通っている新田坂は、旧幕府軍が明治政府に対して反乱を起こした時にすぐに鎮圧できるようにと明治政府の命によって作られた道であるとのこと。


新田峠

六月二十八日の泉陣屋および新田坂、新田山の戦い
〈大村市立資料館の資料によると〉
●泉藩陣屋および新田坂の戦闘
 平潟口軍は軍議の結果、次のような各藩隊の部署を定め、二十ハ日総攻撃を実施することに決した。
◎海岸道より泉陣屋攻撃隊…
 薩摩藩十ニ番隊、私領一番隊、私領二番隊・岡山藩隊・大村藩一番銃砲隊(二門)
◎本街道の新田宿、湯長谷藩攻撃隊…柳川藩隊・佐土原藩銃隊と砲隊
◎平潟守備隊…
柳川藩隊半小隊・笠間藩隊(二十九日着陣)〈略〉
 占領した陣屋で休息中、「新田坂」方面で激烈な銃砲声が絶えず、同盟軍が崖上の堅塁で頑強に応戦して、本街道の「新田宿」攻撃隊が苦戦中なるを知る。薩摩藩私領二番隊と大村藩隊ば泉藩・陣屋の警備に残り、薩摩藩私領一番隊は苦戦中の本街道の「新田宿」攻撃隊の応援に向かう。官軍本街道攻撃隊は、正面攻撃では埒があかないので、敵陣地の正面に砲隊を配置し、銃隊は両側に分かれて攻撃前進中であった。海岸攻撃隊からの薩摩藩私領一番隊は「新田坂」の敵陣地の背面から攻め登る。薩摩藩十二番隊は 「新田坂」の丘陵をよじ登り、敵陣地の左側背に侵攻。
※正面から攻めた…
  砂土原、柳川藩
後ろから攻めた…
  薩摩私領一番隊
東(海側)から攻めた…
  薩摩十二番隊

今後調査したいことや疑問に思うこと
 六月十七日 湯長谷藩主内藤政養(十二歳)は、泉藩主本多忠純(四十八歳)と共に高野村名主太郎吉(太郎兵衛と同一人物か)へ御宿陣(湯長谷藩では、右色・土田・白石・箱崎の四人が護衛し仮藩庁になった(常磐の箱崎さんの話))との記述がある。
 高野村名主太郎吉の家は現在のどの家か。
 湯長谷藩の藩主の母「花月院」西軍の参謀の元へ行き、降伏を願い出た。高野村高萩織兵衛方に戻ったとの記述がある。
 「花月院」について
 「高萩織兵衛」の家は現在のどの家か。
 いわきにおける戊辰戦争での激戦場でのそれぞれの戦死者の数。
 最大の激戦区はどこか?
 西軍約七〇〇人の毎日の食事はどうしたのか?

参考にさせていただいた文献・資料
磐城三藩の戊辰戦争改訂増補版(上妻又四郎)
大村市立資料館の戊辰戦争関係資料(松本淳さんより)
菊多郡滝尻村真徳院への替葬取調書(吉田裕徳さんより)
いわきの戊辰戦争第三回泉城をめぐる戦いー黒須野と剣浜の戦いー(いわき総合図書館)
古文書が語る磐城の戊辰史(平安会)
藩士十六人の覚書(平安会)
いわき市金山町周辺の歴史(金山自治会・金山の昔を伝える会)
植田町史(雫石太郎)
勿来地区地域史(勿来地区地域史編さん委員会)
幕末維新全殉難者名鑑(明田鉄男新人物往来社)
旧平藩士戊辰殉難者追憶(平安会大正六年)
「去年の枝折を読む」(矢内あけみ平成三0年度田人公民館前期市民講座資料)
わたなべの昔第一集(渡辺町づくり推進会わたなべ昔むかし塾)

戊辰戦争に関する発表を通して
 ひょんな事から、戊辰戦争関係の発表をすることになった。私自身も勿来から泉にかけての戊辰戦争についてまとめてみたいと思っていたところだったので、「渡りに舟」という感じであった。発表のための調査を通して平、湯長谷・泉の各藩の藩士の子孫の方々、岩間、小浜・泉の地域の方々に多大なるご協力を得ることができた。また、歴史研究家の松本淳氏には、歴史研究のノウハウなどを含めて様々点でご教授いただいた。この場を通して、ご協力いただいた方々に感謝申し上げたい。
今回の発表を通して、新しくわかったことや考えたことを述べてみたいと思う。

その一 新しくわかったこと
 慶応四年六月二十ハ日の西軍による泉陣屋攻撃の後、彼らは泉町と渡辺町に宿陣した。泉町の旧家には、西軍の参謀三人が宿泊したとされている。名前は、渡邉清左衛門、木梨精一郎、川田佐久馬である。どんな人物か調べてみることにした。調べてみると渡邉は第九代の福島県知事、木梨は初代の長野県知事、川田は初代の鳥取県の県令になっていたことがわかった。また、「江戸無血開城」の際は、イギリス公使パークスが江戸攻撃に反対していることを渡邉が西郷隆盛に、木梨が有栖川宮親王に伝えていたことがわかった。渡邉の娘は、石井筆子と言い、日本の障害児教育の先駆者である。石井筆子の生涯は、「筆子その愛」という映画に描かれ、平成十九年度児童福祉文化賞を受賞している。映画では、筆子を常盤貴子が、清左衛門を加藤剛が演じている。映画の一部は、インターネットでも視聴することができる。磐城を攻撃した西軍の参謀は戦後、三人とも知事になるような人物だったのである。全くの私見になるが、このような
 人物が参謀だったので、会津地区で激しく行なわれた「分捕り」や「住民に対する虐殺行為」は、会津地区に比べると少なかったのではないだろうか。勿論、滞在日数や憎しみの感情が一番の理由だとは思うが・・。

その二 調査を通して考えたこと
 泉藩は、当初、西軍に恭順するという藩論が強かったらしい。理由としては、泉藩では水戸に遊学する藩士が多く、水戸学の影響を強く受けていたからだろう。錦の御旗を掲げた天皇の軍隊と戦うということは、断じて許されないことだと考えていたからではないだろうか。しかし、遊撃隊の説得に応じ、藩論は奥羽列藩同盟側につくことに変わってしまった。
 そこで、藩士の荒木恭次郎と松井秀簡は、天皇の軍に逆らえないと考え、自害したのではないだろうか。仮に、泉藩が西軍側についていたら、いわき市の大合併は、難しかったかもしれない。
 泉藩と湯長谷藩は、非常に親密な関係にあった。それが伺えるのは、戊辰戦争の際、泉藩の藩主本多忠紀公(四十八歳)と湯長谷藩の藩主内藤政養公(十二歳)は高野村の名主の家に一緒に避難している。また泉藩の藩士の家族と湯長谷の藩士の家族との婚姻関係も多く見られる。泉藩が西軍についたら湯長谷藩も同調したかもしれない。仮にそうだったらとするといわきが二分されてしまい過去の怨念が原因で合併は難しかったかもしれない。事実、二本松では、三春藩の寝返りがなかったら、二本松少年隊の悲劇は起こらなかっただろうという人もいる。また、二本松では、三春からは嫁をもらうなと言われた時代もあったという。
 先日の新聞の投稿によると三春の小学校の学芸会で「会津白虎隊」の演舞を行ったところ、指導した教諭が地元の男性から激しい叱責を受けたという。投稿した人は、七十代の女性で、小学生の時の思い出話だから、六十年前以上の話だろう。このように、戦争が地域住民に様々な感情もたらすことはよくあることなのかもしれない。
以上、二点、調査を通しての感想等を思うがままに述べてみた。
 今年は、戊辰戦争から百五十年、磐城の国建国千三百年ということで、いわきの市民講座は、本当に充実している。先日、ある市民講座に参加したら、前に座っていた女性同士の会話が聞こえた。「来年もこういう講座はあるのかな。」「あるといいね。」
来年も、いわきでの市民講座が充実していることを願い、脱稿させていただく。

加茂泰弘さん:磐城高校、千葉大学卒業、元小学校教員
いわき鳴き砂の会、いわきの岩石・断層、郷土史研究

ミニミニ講演会2018年10月25日発行「会報誌まざりな」より

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