明治4年(1871)11月12日、岩倉具視を特命全権大使とする遣外使節団が横浜港から出航する。一行のなかに、山川捨松11歳、津田梅子6歳ら五名の女子遣米留学生がいた。薩摩出身で後に首相となる黒田清隆が主導した初の海外女子留学だった。
慶応4年(明治元、1868)、会津若松籠城戦の軍事総督であった山川大蔵の妹・咲子は、子供ながら城内に籠もり、弾薬筒運びや城内へ打ち込まれた大砲の弾を濡れた布団などで包む火玉抑えをしていた。母は、娘の米国留学の直前、「捨てたつもりで米国に行かせるが、帰りを待つ」という意味を込めて、咲子を捨松と改名した。
梅子の留学は、政府北海道開拓使の募集に対して、幕臣だった父・津田仙の応募によるものだった。しかし、あまりにも幼い梅子の様子に、世間から父へ厳しい批判の目が向けられた。津田仙は前年、幕府発注の軍艦引き取りに米国へ渡り実情を見聞していたので、そこが新しい時代を生きる娘の教育の場として相応しいと考えたのだ。
岩倉使節団は、20日ほどの航海で太平洋を渡り、無事サンフランシスコに到着した。そこで、米国市民から大歓迎を受ける。そして、彼らを乗せた汽車は東部へ向かった。しかし、40年ぶりといわれた大雪にはばまれ、ロッキー山脈の手前ソルトレークシティで数週間の滞在を余儀なくされていた。そんな時、「我々一行を歓迎する宴があるから、一緒に行かないか」と誘いに来た随行員の一人に対して捨松は、「私は、賊軍の娘ですから、そのような晴れがましい席へ参るわけにはまいりません」と言い、誘いをきっぱりと断ったという。
その時の捨松は、心の底で子供ながら新政府軍に逆らい戦ったという「罪」を感じ、梅子のような幼子を含めた異国への留学も「罰」と考えていたのではないか。同行の女子留学生たちの全てが賊軍とされた旧幕府方の出身者だと知り、彼女は独り合点していた。
しかし、11年に亘る米国留学は、捨松を大きく変え成長させた。進学したヴァッサー女子大学を優秀な成績で卒業し、「英国の対日政策」と題する論文を残した。選ばれ卒業式で自身の論文に関する講演をして大きな称賛をあびた、と主要紙に報じられた。
明治15年(1882)11月、留学を終えた山川捨松と津田梅子は、一緒にサンフランシスコから帰国の途についた。
米国留学の年月は、二人にとって、決して楽なものではなかったはずだ。大変な忍耐と想像を絶する努力の11年間であったに違いない。現に五名のうち他の二人は、米国に到着後しばらくして重症のホームシックにかかり、勉学を成す間もなく帰国した。幼い女の子たちは、果たすべき義務と望郷の思いで、当初から心を揺らし続けていた。
米国滞在のあいだ、捨松はニューヘブンのベーコン家、梅子はワシントンのランマン家と別れて寄宿し、生活を共にしていたわけではない。しかし、初めての異国の地で二人は頻繁に文通し、時折会って交流を深めた。特に捨松は、5歳年下の梅子を自分の妹のように慈しみ、励ましていた。こうして二人は、一生続く友情の絆で結ばれていった。
津田梅子は、二回目の留学先として米国・フィラデルフィアのプリマー大学を選び、生物学で成果を収めている。帰国後、自分が目指す我が国の女子高等教育の場として、女子英学塾の創設に奔走する。結婚して大山侯爵夫人となった捨松や彼女が寄宿したベーコン家の末娘アリス・ベーコンらが、梅子を支え国の内外で尽力した。
明治33年(1900)9月、女子英学塾は開学し、それが発展して現在の津田塾大学となった。
強引とも思われる明治政府の近代化政策に導かれ、11年にも及んだ米国留学をやり遂げた二人の女性の高邁で強靭な精神が、我が国に女子高等教育の確かな拠点を誕生させた。
(鈴木 晋)
津田塾大学キャンパス(濃い緑の中、学び舎が点在している)
次号、「同志社大学クラーク記念館」
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