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ザ・戊辰研マガジン

2021年04月号 vol.42

荒城の月

2021年04月03日 22:46 by norippe
2021年04月03日 22:46 by norippe

 ”春高楼の 花の宴 巡る盃 影さして
 千代の松が枝 分け出でし 昔の光 今いづこ”

 お城の天守閣では春になると花見の宴が開かれ、主君や家臣が入り乱れて返杯酒を呑み交わし、その盃には美しい月の姿が映り込んでいた。しかし、今はそんな賑わう姿も無く、松の枝がただ張るのみで、その枝を分けて当時の面影を探すのだが、かつての栄華はどこにも見当たらない。

 土井晩翠が作詞し、滝廉太郎が作曲した心に響く名曲「荒城の月」である。

 さて、この歌の題名に出てくる「荒城」とはいったい、どこのお城を指しているのだろうか。この歌のモデルになったお城は5ヶ所あると言われている。

 まずは滝廉太郎の出身地の大分県。その大分県竹田市にある「岡城址」がそのひとつである。少年期に荒廃した城跡で遊んだ思い出が、この曲のイメージを構成していると考えられる。


岡城址

 そしてもう一つ、滝廉太郎が小学校1年から3年までの時期を過ごした富山県富山市。そこにある「富山城址」である。滝廉太郎が通っていた小学校が富山城の敷地内にあった事や、ここで父親の非職による転校という、子供心にはつらい出来事もあり、それが荒廃した城のイメージと重なったのではという事である。


富山城址

 次に土井晩翠がモデルにしたであろうと思われる場所は、まず彼の故郷である宮城県仙台市の青葉城だ。仙台の北鍛冶町の質屋の息子として生まれた晩翠は、若き日に文学少女だった祖母の影響を受けて、小学生の頃から文学に興味を持ち、その後、第二高等中学校を出てから東京の帝国大学に入学、やがて、発表した詩集が評判を呼び、島崎藤村と並び称される詩人となったのである。全国各地の多くの学校の校歌を作詞した事でも有名である。伊達政宗がもともと「千代」と書いて「せんだい」と呼んでいたこの地を、「仙台」に書き改めたものだという事で、歌詞に出てくる「千代」は、仙台を暗に示しているとも言われ、歌詞のモデルの第1候補と考えられて歌碑が建立されている。


仙台城址

 また、仙台在住当時の晩翠が、よく立ち寄ったとされる岩手県二戸市の九戸城址もモデル候補の一つで、ここにも歌碑があるのだ。
荒城の月の2番の歌詞
 ”秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の 数見せて
 植うる剣に 照り沿ひし 昔の光 今いづこ”
 雁が東北から北陸にかけての地方で越冬する渡り鳥である事で、東北か北陸の城のイメージが強い歌詞であることがわかる。


九戸城址

 そして最後の5ヶ所めの候補地が、あの会津若松鶴ヶ城である。しかし、若松城も東北の城ではあるが、他の城のように、作者ゆかりのあると言う城ではなかったのだが、ある出来事で一変したのだ。
 会津は戊辰戦争で壊滅状態となり、その中での白虎隊の悲話がある。彼らが自害を遂げた飯盛山には、白虎隊記念館という歴史館が建っているが、その創立者である早川喜代次さんという方が、かねてからの知人であった土井晩翠夫妻を会津に招待した事があったのだ。昭和21年(1946年)の事である。
 戦後の荒廃した雰囲気の残る中、何か明るい話題で暗いムードを一新しようと考えた早川さんが、この年が晩翠が「荒城の月」を作詞してから48年目の年に当たる事から、晩翠夫妻を迎えての「荒城の月作詞48周年記念音楽祭」なる物を企画し、開催したのである。
 11月3日、当日の参加者・数千名による「荒城の月」大合唱のあと、挨拶を求められた晩翠が、おもむろに話し始めたのだが、「今、皆さんがたが歌ってくださった私の荒城の月の基は、皆さま方のあの鶴ヶ城です」と語ったのである。もちろん、それは早川さん自身もまったく知らない事であった。
 晩翠が、東京音楽学校からの依頼を受けて、この「荒城の月」を作詞したのは明治31年(1898年)28歳の時である。その時、真っ先に思い浮かべたのが、数年前に二高の修学旅行で会津を訪れた際に、間近に目にした鶴ヶ城の美しくも悲しい荒城の姿であったのだと言う。故郷の青葉城をはじめ、今まで訪れた事のある城も思い浮かべたが、彼の心を最も動かしたのは、たった一度だけ目にした鶴ヶ城の鮮烈な印象だったのである。この話に感激した早川さんら有志によって、現在の鶴ヶ城内にも歌碑が建立されているのだ。


会津鶴ヶ城址

 晩翠は鶴ヶ城を思い浮かべながらも、他の城の事も考えつつの作詞をしたのである。
 晩翠はこの国の歴史を愛する者の一人として、日本の各地に残る古城すべてに当てはまるように、その歌詞を造った。歌詞だけでは、どの城かが特定できない仕上がりになっているのはそう言った意味があるのではないだろうか。
 それは、作曲をした廉太郎も同じである。荒廃した姿でも日本の城にその姿に感動するのは、命を賭けてこの国の歴史を造り上げて来た先人たちの勇姿をそこに見る事が出来る。自分が感動したように、日本のすべての人が、日本の各地の古城を見て感動してほしい。晩翠と廉太郎のそんな思いが伝わってくる「荒城の月」である。

 

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