江戸は発展するにつけ、飲料水不足という深刻な問題に悩まされていた。江戸城から東側はもともと海だったところを埋め立てた土地。井戸を掘っても塩分を含んだ水しか出てこず、近くを流れる川は汚れていて飲み水には適さなかった。そこで、多摩川の上流の水を江戸市中に引き込もうという計画がもたらされた。玉川水道奉行に命ぜられた関東郡代の伊奈半十郎忠治の指揮のもと、承応2年(1653)に清右衛門、庄右衛門の通称玉川兄弟によって玉川上水は開削されたのである。
この玉川上水は、羽村から四谷大木戸までは、約43キロメートルの露天掘りで、その先は地下水路として通水した。玉川上水からは多くの分水が作られ、武蔵野台地の開発や人々の暮らしに利用されたのである。
さて、私が住む福島県いわき市平にも、玉川上水と同じように、いわき市の夏井川から上水を引いた上水道があるのだ。この上水道は農業用水は勿論であるが、飲料水として浄水場を経由して、いわき市平の街の生活には欠かせない水となっているのだ。この上水道の取水堰は小川郷というのどかな町を流れる夏井川に設けられている。この小川郷は当マガジンの48号「阿武隈の地を走る磐越東線」の中で紹介しているので参考まで。
この小川郷の取水堰にまつわる話がこれから始まる。
白鳥と鴨
白鳥と鴨がのんびりと群れるこの風景。11月の半ば、記事の写真取材で訪れた夏井川の小川江筋取水堰のすぐそばの風景である。川の対岸は車も止められ、白鳥を目の前に見れる憩いの場所でもある。
小川江筋の案内板
いわき市内にはこの小川江筋から取った灌漑用水が流れている。小川江筋とは小川地区の夏井川から引いた用水路のことで、いわき市ではそれを「江筋(えすじ)」と言う。疏水のひとつで、およそ350年前、平藩内藤忠興の時代に郡奉行であった澤村勘兵衛勝為が工事を起こし、完成したものである。
斜め堰
斜め堰
取水堰
小川江筋の取水堰は「斜め堰」と呼ばれている。この堰により対岸にある源門から取水しているのだ。これほど大規模な斜め堰で国内に現存するものは少なく、歴史的に最も古いものである。多段式の木工沈床の作りで、構造的に素晴らしいだけでなく自然と調和した美しい堰である。江戸時代初期に造られてから大規模な改修もせずその機能を果たしており、まさにこの堰は水の流れを読んだ先人たちの知恵の結晶である。この堰が奏でるせせらぎは今でも地域の人々や訪れる人々の心を和ませている。
澤村勘兵衛勝為は、慶長十八(1613)年、下野国出身の澤村仲の二男として生まれた。兄の甚五左衛門重勝とともに、上総国佐貫城主 内藤政長に仕官。元和八(1622)年、内藤家の磐城平藩入部のおりには、兄とともに城を受取る大任を果たし、以後、平字搔槌小路に居を構えた。
小川江筋絵図
当時の磐城平藩領内は、肥沃な土地ながらも水の便が悪く、領内を流れる夏井川は田畑より低いところを流れていたため、その豊かな水の恩恵を受けることが出来なかった。磐城平藩主内藤侯は、家臣の澤村勘兵衛に、干ばつのたびに飲み水にも困る農民を助けるよう命じた。勘兵衛はこれを受け、領内の状況を調べ、帰りに平泉崎の光明寺で休憩をとった。そこで、住職の歓順から干ばつに苦しむ農民の窮状を聞き、勘兵衛は江筋開削の指揮をとり、自己の俸禄も投じて工事に尽力した。光明寺は常磐炭田の開祖 片寄平蔵の墓所としても知られている。(片寄平蔵の記事はこちら)
小川江筋工事の開始時期については諸説あるが、光明寺の歓順が記した『小川江筋由緒書』によれば、慶安四(1651)年2月15日とある。その後、『内藤家文書』の公開や『長福寺文書』の発見から、工事着手が寛永十(1633)年、また、同十五(1638)年に小川大堰が完成したことがわかった。さらに、同二十一(1644)年には平窪の新堀工事に着手し、寛文五(1665)年に小川江筋が完成したようである。これにより、磐城平藩は約2万石の石高増となったのである。
小川江筋取水堰
昼夜を通して行われた過酷な工事は、難所も数多くあった。そのうちのひとつが、現在の小川町下小川字台及び丸山のあたり。低地に盛土をして通水しようとしたのだが、漏水のため通水ができなかった。二度、三度と試みたが、そのたび決壊してしまった。工事がうまくいかないため、勘兵衛は自殺を決意した。そんな勘兵衛を母は慰め、菰を敷き、その上に粘土を塗ってみることを助言したのだ。試してみると、漏水することなく通水でき、勘兵衛は大変喜んだそうだ。さらに難所工事は続いた。
平上平窪字横山という場所がある。夏井川の水の勢いが大変激しく、どのようにしても川の水を防ぐ堤防を築くことができなかった。再び、勘兵衛は死を決意た。ところがある夜、勘兵衛の守り本尊である大日如来が夢枕に現れ、岩山を切り通すようお告げがあったのである。早速、切通しの工事を開始したところ、多くの蛇が出てきて、人夫は恐れて掘り進めることができなかった。そこで、勘兵衛は蛇塚を築き、守り本尊の大日如来を勧請し利安寺を建立し、無事江筋を通すことができた。
数百人の人夫が昼夜を問わず投入され、3年3か月で水路は完成した。ただ、工事が進捗するにつれ下流域の農民が競って人夫出しに協力したため、予想以上のペースで工事が進んだこともあるのだ。
小川町関場から夏井川の水を取り入れ、水路の長さはおよそ30km、山裾を通し、平の平窪、鎌田、中塩、四倉を通って仁井田川に繋がる。灌漑用水がなかった時代は土地は荒れ放題だったが、この用水路が出来てからは水田が広がった。そしてこの用水路の水は現在、平浄水場の原水としても使われているのである。
勘兵衛の最期については諸説あるが、功績を妬む者の訴えにより、検地の不正や許可なく寺を建て寄附をしたとして、慶安二(1649)年に罷免され、明暦元(1655)年7月14日、平字大館の西岳寺(現大寶寺)で自刃し、利安寺に葬られたと伝えられている。享年43歳。江筋の恩恵を受けた農民たちにより、明治九(1876)年に、澤村神社が創建された。大正四(1915)年には、従五位を追贈され、勘兵衛の功績がたたえられたのである。
じゃんがら念仏踊り
いわきの名物で、地区の青年会などが旧盆に新盆宅を回り、仏を供養して家族を慰める夏の風物詩「じゃんがら念仏踊り」がある。上平窪にあった利安寺で、沢村勘兵衛の一周忌に農民がこの「じゃんがら念仏踊り」を踊ったのが始まりとされている。
小川江筋の責任者は澤村勘兵衛であったが、この工事に三森治右衛門という男も携わっていたそうだ。この男は治水現場の人足だった百姓であるが、横山台の石垣崩落事故でけがをしたきっかけで、沢村勘兵衛にその才を見いだされ、最大の工事難所であった小川の丸山隧道(暗渠トンネル)化や、鎌田の水喰土における筵と粘土を敷き詰めた新工法を編み出すなどして、一目置かれる存在であった。小川江筋の完成後に、沢村勘兵衛は亡くなるが、20年後に、さらなる新田開発のため、この三森治右衛門が愛谷江筋の開削にあたることになる。400年近く前に作られた疏水が、いまでも現代人の上水、農業用水として使われていることは驚きの一言である。
小川江筋が現在に至るまでには、大小さまざまな改修が行われてきた。特に大規模な改修だったのが、昭和33(1958)年から44(1969)年の「県営大規模かんがい排水事業」。素堀りの箇所の漏水や、水路の崩壊などがあり、必要な通水量を確保するのが難しくなったことなどから、コンクリートの水路に改良された。
いわき市の主な灌漑用水は、「小川江筋」と「愛谷江筋」の2つがある。小川江筋が夏井川右側(上流から見ると左岸)を通るのに対し、愛谷江筋は夏井川左側(上流から見ると右岸)を通って、鉄北地区から、街なかを経由し、北白土・夏井・平高久・沼ノ内に続いている。
平浄水場
平浄水場への取水口
小川江筋の水は、平市街地の東部地区を中心に、北は久之浜地区、西は小川地区、南はいわきニュータウンまで、かなり広い給水エリアへ送られている。平浄水場では1日平均約28,000立方メートルの水を取り入れ(平浄水場全体の約80%)、浄水された水は約90,000人の利用水として送られているのだ。
写真は小川江筋沿いの取水口。平窪地区という、かなり市街地に近い部分で取水しているので、取水口近辺での濁度は6程度で、あまり透明度が高いものではない。
2019年10月に起きた台風19号で、この浄水場が水没の被害に遭い、平市内が一週間にわたり断水したのは記憶に新しい。その時の記事がこのマガジンにある。(令和元年台風19号の爪痕)
測量や掘削の技術が発達していなかった江戸時代。命をかけ、人の手で掘られた小川江筋は、350年以上の時を経てもなお、私たちの暮らしと密接につながっている。農繁期に水を湛えるその姿は、いわきの原風景のひとつとなっているのだ。その流れは、小川江筋開削に命をかけた多くの先人たちの想いを今に伝え、昔と変わらず大地を潤している。
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