「横井 小楠」 誕生地 と 「宮部 鼎蔵」 旧居跡 ① 2008-10-20 19:41:40 テーマ:肥後 今回は、肥後出身の幕末志士 「 横井 小楠 」 誕生地 と 「 宮部 鼎蔵 」 旧居跡 をご紹介したいと思います。 幕末・肥後といったらまずはこのお2人ですよね。 場所は、両者ともおそらく熊本市内坪井町だと思われます。 この2ヵ所は近かったです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ では、まずは 「 横井 小楠 」 誕生地 から。
【 「横井小楠誕生地 と 「清正公井」跡」 】 今は、小楠が生まれたお家があったことを示す碑と、 現在も清水が湧き出ているという古井戸が残っています。 この古井戸は小楠の産湯としても使われたといわれています。 その時代の下級武士宅で使われていた井戸の形式で復元されているそうです。
熊本市内にはこの他にも、 小楠が47歳のときに住まいとしてまた私塾も開いたとする 「 四時軒 」 と名づけられた旧居に隣接する 「 横井小楠記念館 」 もあります。
「 四時軒 」 は往時のままで現存していて市の有形文化財に指定されています。 また、遺髪が祭られている 「 小楠公園 」 があります。 私は残念ながらこの2ヵ所にはまだ行きだしていません。。 では、せっかくなので小楠の生涯をチラッとご紹介しましょう。 熊本で入手したパンフレットから引用させて頂きます。 『 横井小楠は、1809(文化6)年に肥後藩士の次男として 熊本城下に生まれ、藩校時習館で学びました。
小楠は抜群の成績で抜擢され居寮生、居寮長となり、その後藩費により江戸遊学を命じられ 水戸藩士藤田東湖等と意見を交わしました。
帰国後、長岡監物、下津休也、荻昌国や元田永孚らの 同士とともに「学問の本領は実践躬行にあり」と主張して 実学党を結成し、私塾「小楠堂」を開き、徳富一敬、竹崎茶堂 や矢島直方らが入門しました。
1849(嘉永2)年越前藩の三寺三作が諸国遊歴の途中、 小楠を訪れその説に大変感銘を受けて帰国しました。
その報告を受け越前藩は小楠に学校についての教えを乞い 「学校問答書」が建白されました。
この教育論に吉田松陰も大変関心し、長州藩にも推薦しようとしたほどです。 小楠は47歳のとき城下の東郊沼山津に転居し、この住まいを「四時軒」と称して、また塾を開きました。
この頃から小楠は攘夷論から開国論へと移っていきました。1858(安政5)年に越前藩主松平春嶽に賓師として招聘され「国是三論」を草して藩政改革に貢献し、また松平春嶽が幕府政治総裁職に就任するや、そのブレーンとして「国是七条」を建言するなど、 幕府の内政や外交政策に影響を与えました。
明治維新後、新政府の参与となりました。岩倉具視は、木戸、大久保や西郷ら22人の参与の中でも 、 特に小楠を頼りにし相談しています。
しかし1869(明治2)年正月5日、太政官に出任して退朝する途中 保守派たちにより襲われ、短刀を抜いて防ぎましたが力尽きて倒れました。享年61歳でした。
1870(明治3)年には、小楠の意思を継いだ実学派が県政をリードしました。』 確か私の記憶では、 肥後にいた小楠に清川八郎や竜馬も訪ねてるはずです。
小楠が61年間の人生で人々に世に与えた影響は計り知れないものでしょうね。 そして、熊本城近くの戦前の第6師団長官舎跡地である高橋公園の中に、横井小楠のほか、 小楠と親交のあった坂本竜馬・勝海舟・松平春嶽・細川護久の5人の群像があります。
【熊本市 「 横井小楠と維新群像 」 】 またまた字数制限にひっかかったので 宮部さん家の紹介は 『「横井 小楠」誕生地 と 「宮部 鼎蔵」旧居跡 ②』 に続きます。 AD
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