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2021年12月号 vol.50

十津川郷士⑨御親兵多難-天誅組の変②

2021年11月24日 16:38 by tama1
2021年11月24日 16:38 by tama1

 主税たち在京の幹部たちは、使者十人を二手に分けて郷里に送り込んだものの、高野山 越えの組は紀州・橋本で和歌山藩に拘束され、十津川には入れず、他方、北山越えの組 は何とか潜入には成功したものの、郷内は天誅組の影響で空気が一変していて、迂闊に 動けない。その上、在郷の幹部はみな天誅組の陣中にいるため接触できず、どうしょう かと考えあぐねている間に日が過ぎてゆくといった有様でした。

 京では主税ら幹部は首を長くして吉報を待っていたが、郷里からは何の便りもなく、 苛立ちがピ-クになろうとしていた矢先の九月五日、朝廷の強い督促もあり、追討四藩 による、天辻総攻撃の命が下ったのでした。 天誅組は勅諚によって蜂起したのだとの風説が一部に根強く流れていたため、懐疑した 諸藩が積極的な攻撃をためらっていたことを知った朝廷では、急いで流言を否定する触書 を出したのだという。

「中山忠光が勅諚などと唱えているので、周囲も遠慮しているようだが、これは全くの 偽りである。忠光は国家の乱賊、早々に討ち取れ」という厳しいものだった。

これを受けて、京都守護職の松平容保が総攻撃命令を発し、諸藩も得心して動き出した といいます。尚、この触書は、叡慮を体した中川宮が自ら起草したと言われています。 殿上人の宮にしては珍しい過激な調子だが、この時の宮はおどろくほど高揚しており、 この機会に、長州藩や天誅組を叩き潰したいという執念に燃えていたのでしょう。 それを示すような沙汰を、宮は総攻撃下命の当日(九月五日)、主税ら在京の十津川 郷士にも次のごとく下しています。

 去ル十七日、和州五条村ニ於ケル乱暴ノ浪士追討ノ儀、武家ヘ仰セツケラレ候エ共、 余党、十津川郷ヘ立入リ候山、相聞コエ候。追々時日相移リ候テハ国家ノ大害ニ及ブ ベク候。 十津川郷、往古以来勤王ノ志情相励マシ、早々追放ニ尽力コレアルベク御沙汰候事。

「十津川記事」によると、中川宮は同日(五日)郷総代の上平主税、深瀬仲麿の二人を わざわざ御殿に呼んで謁見、この沙汰を下し、現下の情勢を懇々と説諭した上、小判 百両を下腸して激励したという。 内容を一言でいえば、郷内に入り込む天誅組の浪士を討ち取れ、というものだが、これは 明らかに、同日に出された天辻総攻撃命令を踏まえてのものであることがわかります。

 天辻が陥落すれば、残党は十津川郷に逃げ込み、深山に潜んでゲリラ化することを恐れ た朝廷は、勝手知ったる十津川勢に、帰って一人残らず討ち取れといったものでした。 この沙汰には、流石に主税らも当惑した。 つい、先日郷里へ送り込んだ使者らからの連絡がなく、もしかすると、郷里は天誅組に 支配されており、使者も全員殺されているかもしれない。

 しかし、朝命は絶対だ。まして中川宮が慣例を破って親しく引見し、申し渡された特命 です。否とはいえるはずもなかった。 その結果、まず少人数の先行隊をひそかに帰郷させ、郷里の現状を見極めた上、適切な 行動をとろうと、とりあえず十六人の腕の立つ若者を選んだ。 前回と同様、二つのル-トを採用することにし、北山越えには中島藤助ら八人、高野山越 えには榊本総兵衛ら八人が配され、両隊はそれぞれ東・西から郷に潜入、中央部の池穴 村で落ち合う手筈も決められました。

 今回は上平主税も総指揮官として北山越え隊に同行することにし、九月七日、一行はお沙 汰書を奉じてひそかに京を発ったとあります。

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