『 殿、今年いたしましょうか 』 『 まだ早かろう 』 これは長州藩でのお正月のごあいさつ。
家老が藩主に新年の挨拶をするさいに 幕府打倒の意思を確認していたというとのこと。 関ヶ原の合戦で徳川家康に敗れた毛利輝元は、 それまで君臨していた中国地方(8カ国 120万石)から 周防・長門の2カ国 36万石に追われたのだ。 その恨みは代々 続いていったのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
唐津藩出身の新選隊士 大野右仲さんに関する 新たな情報を偶然にも得たのでそのご報告をしたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
幕末志士のメジャーすぎる人物。 長州藩士 高杉晋作。
【 山口県下関市 『 高杉晋作像 』 2009.8 撮影 】 この高杉晋作と、 明治維新前夜の慶応4年に 唐津藩兵を率いて新選組に入隊した 唐津藩士 大野 右仲さんは、『真の知己なり』 と呼びあう関係だったらしいのです! その情報を 先週たまたま訪れた 山口県萩市にある萩博物館にて得ました。 大野さんのことを調べている時に 偶然にも遭遇した情報。 偶然の巡り合わせにビックリです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高杉さんと大野さんが知り合ったのは、 江戸の地においてです。 高杉晋作は 安政5(1858)年 20歳の時に江戸へ遊学。 幕府の昌平坂学問所に入学して諸国の若者たちと交流を深めます。 その中に唐津藩士の大野さんがいました。 高杉さんは大野さんと意気投合したようで、 のちには 『 真の知己なり 』 と呼びあう仲になります。 まずは、 萩博物館に展示してある『 東行自筆遺稿 』 を見てみましょう。 高杉さんが、 安政5(1858)年11月から 翌6年10月まで 昌平坂学問所で学んだ際 つくった文章や漢詩の草稿は回覧されたようで 複数の仲間たちによる批評が多数書きこまれています。 この中の “宗” とあるのが大野さんによる批評で 『 不用之作 』 『 前半有法・後半疏漏 』 など忌憚がありません。 2人の親密な関係がうかがえます。 次に、 高杉さんが交流のあった他藩人の姓名を記録した 『 観光録 』 に 『 唐津 大野又七郎 』 の記録が見られます。 文久3(1863)年のころの成立と思われます。 しかし、 幕末動乱の中で 譜代大名である唐津藩は長州藩と対立を深めることになります。 かつての 『 真の知己 』 と呼びあう仲だった2人も まったく異なる立場へと身を置くこととなったのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この、 高杉さんと大野さんの仲を垣間見ることができる 『 東行自筆遺稿 』 と 『 観光録 』 の現物をごらんになりたい方は 山口県萩市にある萩博物館へ足を運ばれて見て下さい。 今回、 ご紹介した展示物の他にも たくさんの貴重な資料が展示してあります。<幕末・明治> miki の 史跡巡り帳
<参孝資料> ・山口県萩市 萩博物館の展示資料・解説 ・一坂太郎著 『 高杉晋作を歩く 』 山と渓谷社
読者コメント